東漢時代210 順帝(二十三) 馬賢の失敗 141年(1)
今回は東漢順帝永和六年です。
東漢順帝永和六年
辛巳 141年
順帝が馬賢に西羌討伐を命じた時(前年)、大将軍・梁商は馬賢が老齢だったため、太中大夫・宋漢を送るべきだと考えました。しかし順帝はこの意見に従いませんでした。
宋漢は宋由の子です。宋由は章帝と和帝の時代に太尉を勤めました。
馬賢は軍に入ってから、停留して前に進みませんでした。
そこで武都太守・馬融が上書しました「今は雑種諸羌(羌の諸族)が互いに各地で侵犯略奪しているので(転相鈔盗)、彼等が合流する前に、速やかに(兵を)派遣して深入りさせ、その支党を破るべきです。しかし馬賢等は所々で逗留しています(処処留滞)。羌・胡は百里に塵を望み、千里に声を聴きます(百里離れた砂塵を眺め見て、千里離れた声を聞きます)。今は逃匿避回していますが(漢軍を避けていますが)、その後ろに漏出したら(漢軍の後ろに回り込んだら)必ず三輔を侵寇し、民の大害になります。臣は馬賢が使うことができない関東の兵五千を請いたいと思います(臣願請賢所不可用関東兵五千)。部隊の号を借りるだけで(部隊に号令を出す権限を与えられるだけで)、力を尽くして率厲(統率・激励)し、埋根行首(退くことなく軍を指揮すること。「埋根」は「根を張って退かないこと」、「行首」は「軍列」、または「軍を統率する者」ですが、恐らくここでは「軍を指揮すること」です)して吏士に率先し、三旬(三十日)の間に必ず克破(撃破)してみせます。また、臣は呉起が将になった時、暑くても蓋(傘)を張らず、寒くても裘(毛皮)をまとわなかったと聞いています。今、馬賢は野外に駐軍して幕を垂らしており、多数の珍味が雑乱と並べられ、児子(子供)や侍妾(が左右に侍っているので)、事が古に違えています(今賢野次垂幕,珍肴雑遝,児子侍妾,事與古反)。臣は馬賢等が一城を専守して西を攻めると宣言しても羌が東に現れ、しかもその将士が命に堪えられなくなり、必ず高克による潰叛の変が起きるのではないかと懼れます。」
高克について解説します。
春秋時代、狄が黄河北の衛を滅ぼしたため、黄河の南に位置する鄭が守備の兵を出すことにしました。鄭文公は高克という者を嫌っていたため、高克に師(軍)を率いて黄河沿岸に駐軍させ、清邑の民を動員しました。ところが文公は高克に命令を出さず、長い時間が経っても撤兵させませんでした。その結果、長期放置された兵達に不満が溜まり、ついに離散して軍が壊滅します。高克は陳に奔りました(東周恵王十七年・前660年参照)。
本文に戻ります。
安定の人・皇甫規も馬賢が軍事を憂慮していない姿を見て、必ず敗北すると判断しました。そこで朝廷(皇帝)に上書して状況を述べました。
しかし朝廷は馬融や皇甫規の意見に従いませんでした。
これを機に東・西羌が大集合しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、安定、北地、上郡、西河に住む羌を「東羌」、隴西、漢陽から金城塞外に住む羌を「西羌」といいます。
安定太守・郭璜が獄に下されて死にました。
順帝が詔を発し、王・侯国の一年の租を寛免しました(詔貸王侯国租一歳)。
閏月、鞏唐羌が隴西を侵し、更に三輔に至って園陵を焼き、吏民を殺掠しました。
二月丁巳(初三日)、孛星(異星。彗星の一種)が營室に現れました。
三月上巳(初九日)、大将軍・梁商が賓客を集めて雒水で大宴を開きました。
これを聞いた従事中郎・周挙が嘆息して言いました「これはいわゆる『哀楽が時を失った(哀と楽が相応しくない時に行われている。原文「哀楽失時」)』というものだ。その時が相応しくなかったら、殃(禍)が及ぶことになるだろう(非其所也,殃将及乎)。」
武都太守・趙沖が鞏唐羌を追撃して破り、四百余級を斬首して二千余人を降しました。
順帝が詔を発して趙沖に河西四郡の兵を監督させました(詔沖督河西四郡兵為節度)。
「武都太守・趙冲」は『後漢書・孝順孝沖孝質帝紀』の記述で、『資治通鑑』はこれに従っていますが、『後漢書・西羌伝(巻八十七)』では「武威太守」となっており、『後漢書・皇甫張段列伝(巻六十五)』には「護羌校尉・趙沖」と書かれています。
但し胡三省は「趙沖は羌を追撃した功を立てて、詔によって河西四郡の兵を監督することになったので、武威太守が正しい。武都は西北が漢陽に接し、東北が扶風に接し、南が漢中に接しているので、(武都太守が)遠く河西の郡兵を監督する理由はない」とも書いており、『資治通鑑』本文が「武都太守・趙冲」としているのを誤りと判断しています。
安定の上計掾・皇甫規が上書しました「臣は近年以来(比年以来)、しばしば便宜(利があること)を述べてきました。羌戎がまだ動いていない時に背反することになると予測し(策其将反)、馬賢が出征したばかりの時に必ず敗れると判断しました。誤って(不幸にも)中ってしまった言はどれも考校(考察・確認)できます(誤中之言在可考校)。
臣はいつも馬賢等が衆を擁して四年になるのにまだ功を成せず、縣師(「懸師」。兵を留めること)の費が日に億を計ろうとしていることを考えています。(これらの費用は)平民から出て姦吏に回入(流入)しているため、江湖では人々が群がって盗賊になり、青・徐では荒饑(飢餓による荒廃)して(人々が)子供を背負って流散しています(襁負流散)。羌戎の潰叛(離反)は承平(太平)が理由ではなく、全て辺将が綏御(按撫して治めること)を失ったことが原因です。(辺将は)常に安(安寧)を守っていることに乗じて(羌人が平安従順であることに乗じて)侵暴を加え、目先の小利を競って大害をもたらし、微勝(わずかな勝利)でも首級を虚張(誇張)し、軍が敗れても隠して報告しません(隠匿不言)。軍士は労怨(辛苦怨恨)して猾吏(狡猾な官吏、長官)のために困窮しており、進んでも快戦(速戦)によって功を求めることができず、退いても温飽によって命を全うすることができず、溝渠(水路や堀)で餓死して中原に骨を曝しています。いたずらに王師の出征を見るだけで振旅(凱旋)の声を聞くことなく、酋豪(羌人の領導)は泣血(痛哭)し、驚懼して変事を生んでいます(酋豪泣血驚懼生変)。これが安寧を久しくできず、叛したら年を経ることになり、臣が搏手扣心(手を叩いたり胸を打つこと。悲憤を表します)して嘆息を増やしている原因です。
臣に両営と二郡(『資治通鑑』胡三省注によると、「二郡」は安定と隴西を指します。「両営」は「馬賢と趙沖」という説と、「扶風擁営と京兆虎牙営」という説があります)を貸し、坐食の兵(任務がない兵)五千を屯列(駐屯)させ、(相手の)不意に出て、趙沖と首尾を共にさせることを願います。土地や山谷は臣が曉習(通暁)しており、兵勢巧便(巧みな用兵)は臣にも経験があるので(兵勢巧便臣已更之)、方寸の印や尺帛の賜を煩わすことなく、高ければ(うまくいけば)滌患(憂患を除くこと)でき、下でも納降(投降を受け入れること)することができます。もし臣が年少で官が軽いので用いるに足りないというのなら、諸敗将の官爵が髙くなく、年歯が老いていなかった(不邁)のではありません(全ての敗将が若くて官位が低かったのではありません)。臣は至誠を抑えられないので、死を冒して自らこれを述べます(原文「没死自陳」。「没死」は「冒死」の意味です)。」
順帝はこの意見を用いることができませんでした。
庚子(十六日)、司空・郭虔を罷免しました。
乙巳、河閒王(河間王)・劉政が死にました。
丙午(二十二日)、太僕・趙戒を司空に任命しました。
次回に続きます。