東漢時代211 順帝(二十四) 梁商の死 141年(2)
今回は東漢順帝永和六年の続きです。
夏五月庚子、斉王・劉無忌(和帝永元二年・90年参照)が死にました。
子の頃王・劉喜が継ぎました。
『資治通鑑』胡三省注によると、穀城は西河郡の穀羅県城、通天山は土軍県の石楼山のようです。
鞏唐羌が北地を侵しました。
北地太守・賈福が趙沖と共に攻撃しましたが、勝てませんでした。
秋七月甲午、順帝が詔を発し、財産を持つ民から一戸当たり銭一千を借りました(詔假民有貲者戸銭一千)。
秋八月、大将軍・乗氏侯・梁商(忠侯)が病を患い、危篤に陥りました。
梁商が子の梁冀等に命じて言いました「私は生きている間に朝廷を輔益(補佐)することがなかったのに、死んでからどうして帑藏(国庫)を耗費(浪費、消費)することができるだろう。衣衾(死者の服と布団)、飯含(死者の口に入れる玉や穀物。『資治通鑑』胡三省注によると、大夫は玉を「飯」、貝を「含」とし、士は珠を「飯」、貝を「含」としました)、玉匣(死者に着せる玉衣)、珠貝の属(類)は朽骨(死体)に対して何の益があるだろう。百僚を労擾(労苦)させて道を華やかにしても(紛華道路)、ただ塵垢を増やすだけである。全て辞退するべきだ。」
丙辰(初四日)、梁商が死にました。順帝が自ら喪に臨みます。
諸子は梁商の教えに従おうとしましたが、朝廷(皇帝)がそれを聴かず、東園の祕器(葬具)、銀鏤(銀の彫刻。『資治通鑑』胡三省注によると、銀の彫刻が施された棺です)、黄腸(柏を重ねて棺を囲む墓室内の構造です)、玉匣を下賜しました。
順帝は宣陽亭まで至り、葬列の車騎を遠くまで見送りました。
壬戌(初十日)、河南尹・乗氏侯・梁冀を大将軍に、梁冀の弟・侍中・梁不疑を河南尹に任命しました。
梁商が危篤になった時、順帝が自ら梁商を訪ねて遺言を聞きました。
梁商はこう答えました「臣の従事中郎・周挙は清高忠正なので重任できます。」
周挙は諫議大夫に任命されました。
九月、諸種羌(羌の諸族)が武威を侵しました。
辛亥晦、日食がありました。
そこでまた安定の郡府を扶風に、北地の郡府を馮翊に遷しました(安帝永初五年(111年)に安定、北地、上郡の郡府が内地に遷されていましたが、順帝永建四年(129年)に元に戻されました。今回、安定と北地の二郡が再び遷されました)。
十一月庚子(二十日)、執金吾・張喬を行車騎将軍事(車騎将軍代行)に任命し、兵一万五千人を率いて三輔に駐屯させました。
荊州で盗賊が挙兵し、年内に平定できませんでした。
李固は全て赦して還らせ、互いに招集させて威法(威信と法令)を開示しました。
半年の間に残った者も全て投降し、州内が清平になります。
高賜等は重賂を大将軍・梁冀に贈ります。梁冀は高賜等のために赦しを請う檄文を準備し、一日に千里を駆けて李固に届けさせました。
しかし李固はますます厳しく追及します(持之愈急)。
そこで梁冀は李固を泰山太守に遷しました。
当時、泰山では盗賊が集まって年を経ており、郡が常に兵千人を出して追討していましたが、制御できませんでした。
李固は到着すると兵を全て解散して農事に帰らせ、戦を得意とする者(任戦者)百余人だけを選んで留めてから、恩信によって盗賊を誘いました。
次回に続きます。