東漢時代211 順帝(二十四) 梁商の死 141年(2)

今回は東漢順帝永和六年の続きです。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏五月庚子、斉王劉無忌(和帝永元二年90年参照)が死にました。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉無忌の諡号は恵王です。在位年数は五十二年に及びました。
子の頃王劉喜が継ぎました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
夏、使匈奴中郎将張耽、度遼将軍馬続が鮮卑を率いて穀城に至り、通天山で烏桓を撃って大破しました。
資治通鑑』胡三省注によると、穀城は西河郡の穀羅県城、通天山は土軍県の石楼山のようです。
 
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』は「使匈奴中郎将張耽が烏桓と羌胡を天山で大破した」と書いています。
 
[十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
鞏唐羌が北地を侵しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』では「鞏唐羌」ですが、『後漢書西羌伝(巻八十七)』は「罕種羌」としています。
 
北地太守賈福が趙沖と共に攻撃しましたが、勝てませんでした。
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月甲午、順帝が詔を発し、財産を持つ民から一戸当たり銭一千を借りました(詔假民有貲者戸銭一千)
 
[十五] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
秋八月、大将軍乗氏侯梁商(忠侯)が病を患い、危篤に陥りました。
梁商が子の梁冀等に命じて言いました「私は生きている間に朝廷を輔益(補佐)することがなかったのに、死んでからどうして帑藏(国庫)を耗費(浪費、消費)することができるだろう。衣衾(死者の服と布団)、飯含(死者の口に入れる玉や穀物。『資治通鑑』胡三省注によると、大夫は玉を「飯」、貝を「含」とし、士は珠を「飯」、貝を「含」としました)、玉匣(死者に着せる玉衣)、珠貝の属(類)は朽骨(死体)に対して何の益があるだろう。百僚を労擾(労苦)させて道を華やかにしても(紛華道路)、ただ塵垢を増やすだけである。全て辞退するべきだ。」
 
丙辰(初四日)、梁商が死にました。順帝が自ら喪に臨みます。
諸子は梁商の教えに従おうとしましたが、朝廷(皇帝)がそれを聴かず、東園の祕器(葬具)、銀鏤(銀の彫刻。『資治通鑑』胡三省注によると、銀の彫刻が施された棺です)、黄腸(柏を重ねて棺を囲む墓室内の構造です)、玉匣を下賜しました。
埋葬する時には軽車(兵車)と介士(甲士)を下賜し、中宮(皇后。梁商の娘梁皇后です)が自ら霊柩を送ります。
順帝は宣陽亭まで至り、葬列の車騎を遠くまで見送りました。
資治通鑑』胡三省注は、「雒陽城には十二門があったが宣陽門はなかった。魏晋の間に始めて洛城(洛陽城)に宣陽門ができた。正南門である。漢の雒城は正南を平城門といった」と解説しています。
 
壬戌(初十日)、河南尹乗氏侯梁冀を大将軍に、梁冀の弟侍中梁不疑を河南尹に任命しました。
 
梁商が危篤になった時、順帝が自ら梁商を訪ねて遺言を聞きました。
梁商はこう答えました「臣の従事中郎周挙は清高忠正なので重任できます。」
周挙は諫議大夫に任命されました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝が諫大夫を置き、光武帝中興後に諫議大夫に改められました。
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、諸種羌(羌の諸族)が武威を侵しました。
 
[十七] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
辛亥晦、日食がありました。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月癸丑(初二日)、羌人が頻繁に辺境を侵したため(羌寇充斥)、涼部涼州が震恐しました。
そこでまた安定の郡府を扶風に、北地の郡府を馮翊に遷しました(安帝永初五年111年)に安定、北地、上郡の郡府が内地に遷されていましたが、順帝永建四年129年)に元に戻されました。今回、安定と北地の二郡が再び遷されました)
 
十一月庚子(二十日)、執金吾張喬を行車騎将軍事(車騎将軍代行)に任命し、兵一万五千人を率いて三輔に駐屯させました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
荊州で盗賊が挙兵し、年内に平定できませんでした。
そこで順帝は大将軍従事中郎李固を荊州刺史に任命しました。
 
李固は荊州に到着すると、官吏を派遣して境内を労問(慰問)させ、寇盗の前釁(以前の罪)を赦して改心の機会を与えました。
その結果、賊帥夏密等が魁党頭目と党羽)六百余人を従え、自らを縛って帰首(帰順)しました。
李固は全て赦して還らせ、互いに招集させて威法(威信と法令)を開示しました。
半年の間に残った者も全て投降し、州内が清平になります。
 
李固が南陽太守高賜等の臧穢(貪汚)を上奏しました。
高賜等は重賂を大将軍梁冀に贈ります。梁冀は高賜等のために赦しを請う檄文を準備し、一日に千里を駆けて李固に届けさせました。
しかし李固はますます厳しく追及します(持之愈急)
そこで梁冀は李固を泰山太守に遷しました。
 
当時、泰山では盗賊が集まって年を経ており、郡が常に兵千人を出して追討していましたが、制御できませんでした。
李固は到着すると兵を全て解散して農事に帰らせ、戦を得意とする者(任戦者)百余人だけを選んで留めてから、恩信によって盗賊を誘いました。
その結果、一年も経たずに賊が全て弭散服従解散)しました。
 
 
 
次回に続きます。