東漢時代212 順帝(二十五) 張綱 142年(1)

今回は東漢順帝漢安元年です。
 
東漢順帝漢安元年
壬午 142
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月癸巳(十四日)、明堂で宗祀(祭祀)して天下に大赦し、永和七年から漢安元年に改元しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
二月丙辰、順帝が詔を発し、大将軍と公卿に賢良方正で深奥な道理を探求できる者(能探賾索隠者)を各一人推挙させました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月、初めて承華厩を置きました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、当時は遠近から献上される馬が多く、園厩が充満したため、初めて承華厩令を置きました。秩は六百石です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月、南匈奴の句龍(句龍王吾斯南匈奴左部大人句龍吾斯。順帝永和五年140年参照)と薁鞬、臺耆等が反して并部并州を寇掠(侵略略奪)しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
丁卯(二十一日)、順帝が侍中河内の人杜喬、光禄大夫周挙(『資治通鑑』胡三省注によると周挙は汝南の人す)、守光禄大夫(光禄大夫代理)周栩、馮羨、魏郡の人欒巴、張綱(資治通鑑』胡三省注によると、張綱は犍為武陽の人です)、郭遵、劉班(この八人を「八使」といいます)を各州郡に派遣し、分かれて各地を巡行させました。教化を宣伝して善悪得失の実態を調べ(班宣風化,挙実臧否)、賢良を表彰して忠勤を明らかにします。
貪汚で罪がある者がいたら、刺史二千石から駅馬で朝廷に報告させ、墨綬以下に命じて即刻收挙(逮捕弾劾)させました(『資治通鑑』胡三省注によると、「墨綬」は県の令長を指します。州刺史や郡太守国相が駅馬で朝廷に上奏して速やかに指示を仰ぎ、逮捕の許可が出たら県令長以下の官員が即時検挙しました)
 
杜喬等は命を受けて各州に行きましたが、張綱だけは車輪を雒陽の都亭(旅人が宿泊する施設。『資治通鑑』胡三省注によると、郡国県道の全てに都亭がありました)に埋めてこう言いました「豺狼(山犬や狼)が道にいるのに、どうして狐狸(の罪)を問えるか(原文「豺狼当路,安問狐狸」。西漢成帝時代、侯文が京兆尹孫宝に言った言葉が元になっています。『漢書蓋諸葛劉鄭孫毌将何伝(巻七十七)』)。」
 
張綱が弾劾の上書を行いました「大将軍梁冀、河南尹梁不疑は外戚として恩を蒙り、阿衡の任(「阿衡」は古代の官名で、帝王を教育輔佐しました)にいながら、権勢を握って貪婪貪汚であり、放縦して際限がありません(専肆貪叨縦縱恣無極)。そこで謹んでその無君の心十五事を條しました(心中に主君がいないことを示す十五事を箇条書きにしました)。これらは全て臣子が切歯(憤懣)することです。」
上書が提出されると、京師が震撼しました。
しかし当時は梁皇后の寵が盛んで、諸梁(梁氏)の姻戚が朝廷を満たしていたため、順帝は張綱の言直を知りながら用いることができませんでした。
 
杜喬は兗州に到着してから泰山太守李固の政を天下第一として朝廷に報告しました。
順帝は李固を招いて将作大匠に任命しました。
 
八使が弾劾した者の多くは梁冀や宦者の親党でした。彼等が互いに助けあったため、上奏された内容は全て放置されます。
侍御史河南の人种暠がこの状況を憎んで再び罪状を報告しました。
廷尉呉雄、将作大匠李固も「八使が糾弾した内容は急いで誅罰するべきです」と上書します。
順帝はやっと八使の奏章を官員に下してその罪を考正(調査。事実かどうかを確認すること)させました。
 
梁冀は張綱を恨んだため、中傷する機会を求めました。
当時は広陵張嬰が揚徐二州の間を寇乱しており、既に十余年が経っていました。二千石が制御できなかったため、梁冀は張綱を広陵太守に任命します。
 
以前は多くの太守が赴任する時に兵馬を求めましたが、張綱だけは単車で職に就きました。
張綱は広陵に到着すると、直接、張嬰の塁門を訪ねます。
張嬰は大いに驚き、急いで走って塁門を閉じました。
張綱は門の外で部下の吏民(恐らく「吏卒」の誤りです)を解散させ、自分と親しい十余人だけを留めてから書を送って張嬰を諭し、会見を請いました
張嬰は張綱の至誠を見て、門から出て拝謁しました。
 
張綱は張嬰を上坐に座らせると、こう諭しました「前後の(以前の)二千石は多くが貪暴をほしいままにしていたので、公()等に憤怒を抱かせて集結させてしまった。確かに二千石に罪がある。しかし(公等が)このように為しているのも非義である。今、主上は仁聖で、恩徳によって叛を服そうと欲しているので、太守()を派遣した。爵禄によって栄えることを思い、刑罰を加えることは願っていない。今は誠に禍を転じて福と為す時である。もし義を聞いても服さなかったら、天子は赫然(憤怒の様子)と震怒し、荊豫の大兵(大軍)を雲合(大きな雲のように集結させること)させるので、(公等は)身と首が離れ(身首横分)、血嗣(犠牲を捧げる祭祀。または血が繋がった後嗣、子孫)が共に絶えることになる。公は二者の利害を深く計れ。」
 
話を聞いた張嬰は泣いてこう言いました「荒裔(辺遠の地)の愚民は自ら朝廷に通じる(報告する)ことができず、侵枉(侵犯、冤罪)に堪えられなかったため、互いに集まって生を偸んできましたが(遂復相聚偸生)、魚が釜の中で遊ぶようなもので、久しくできないことを知っていました(知其不可久)。とりあえずわずかな期間でも息を繋ごうとしただけです(意訳しました。原文「且以喘息須臾間耳」。「喘息」は呼吸すること。「須臾間」は短い時間です)。今、明府(張綱)の言を聞きました。嬰(私)等の更生の辰()です。」
張綱は別れを告げて営に還りました。
 
翌日、張嬰が部衆一万余人と妻子を率い、面縛(手を後ろで縛ること)して帰順しました。
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』は漢安元年(本年)に「九月庚寅、広陵の盗賊張嬰等が郡県を侵した」「この年、広陵の賊張嬰等が太守張綱を訪ねて降った」と書いています。
しかし『後漢書張王种陳列伝(巻五十六)』には張嬰が寇乱して「積十余年(十余年が経過した)」とあるので、「九月に郡県を侵してこの年に降った」とするのは誤りのはずです。袁宏の『後漢紀』は張嬰の投降を八月と十月の間に書いており、『資治通鑑』はこれに従っています(胡三省注参照)
 
張綱が単車で張嬰の塁に入って大会を開きました。酒を飲んで皆で楽しみます(置酒為楽)
その後、張嬰の部衆を解散して自由に住む場所を決めさせました。張綱自ら住居や田地の善し悪しを確認して選びます(卜居宅相田疇)。子や孫で官吏になりたい者がいたら全て招きました。
そのおかげで人情(人心)が喜んで張綱に帰服し、南州が安定しました。
 
朝廷が功を論じて張綱を封侯すべきだとしましたが、梁冀が阻止しました。
 
張綱は郡に着任して一年で死にました。
張嬰等五百余人が喪服を着て葬事を行い(制服行喪)、霊柩を犍為に送ってから、土を運んで墳墓を造りました(負土成墳)
順帝は詔によって張綱の子張続を郎中に任命し、銭百万を下賜しました。
 
張嬰は沖帝永嘉元年145年)に再び反します。
 
 
 
次回に続きます。