東漢時代213 順帝(二十六) 任峻、蘇章、呉祐 142年(2)

今回は東漢順帝漢安元年の続きです。
 
[(続き)] 当時、二千石や長吏(県官)で政治の能力がある者には、雒陽令任峻、冀州刺史京兆の人蘇章、膠東相陳留の人呉祐がいました。
雒陽令は王渙(和帝元興元年105年参照)の後、その職責に相応しい人材がいませんでしたが、任峻は文武の吏を選んで任用し、それぞれの能力を発揮させることができました(各尽其用)。姦悪な者を迅速に摘発したため(発姦不旋踵)、民間が官吏を恐れなくなります(官吏の不正が無くなったので、民が官吏を恐れなくなりました)。但し、任峻の威禁(法令)は王渙より厳しかったものの、文理政教儀礼や政治教化)は王渙に及びませんでした。
 
冀州刺史・蘇章は、任命されたばかりの時、ある故人(友人。旧知)が清河太守を勤めていました。
蘇章は州を巡視して清河太守の姦臧(貪汚の罪)を調査しようとしました。そこで太守に酒肴(酒席)を設けるように請い、平生の好(よしみ。友情)を語って非常に楽しみました。
太守が喜んで言いました「人は皆、天が一つしかないが、私だけは二つの天がある(人皆有一天,我独有二天)。」
蘇章が太守の悪を覆い隠してくれるという意味です。
しかし蘇章はこう言いました「今夕、蘇孺文(孺文は蘇章の字です)が故人と飲むのは私恩によるものである。明日、冀州刺史が案事(事件を調査すること)するのは公法によるものである。」
蘇章が清河太守を検挙して罪を正したため、州内が粛然としました。
蘇章は後に権貴の者を攻撃して皇帝の意思にも逆らったため(摧折権豪忤旨)、罪に坐して罷免されました。
当時は天下が日々衰落しており、多くの民が愁苦していたため、論者が日夜、蘇章を称賛しましたが、朝廷(順帝)は最後まで再び用いることができませんでした。
 
呉祐は膠東相になってから(『資治通鑑』胡三省注によると、膠東は侯国で北海国に属します)、仁愛簡約を尊んで政治を行いました。そのため民が(心服して)官府に対して欺瞞できなくなりました(民不忍欺)
ある日、嗇夫(『資治通鑑』胡三省注によると、県には「嗇夫」が一人おり、民の善悪を把握して徭役の順番を決めたり、民の貧富を把握して賦税の額を決めました)孫性が勝手に賦税を課して民の銭を集め(私賦民銭)、衣服を買って父に贈りました。
しかし衣服を受け取った父は怒って「あのような君(長官)がいるのに、どうして騙すことができるのだ(有君如是,何忍欺之)!」と言い、帰って罪に伏すように促しました。
孫性は慚愧と懼れを抱いて閤(官署の門)を訪ね、衣服を持って自首しました。
呉祐が左右の者を去らせて事情を問うと、孫性は父の言葉を詳しく語りました。
呉祐が言いました「掾(属官。孫性)は親のために汚穢(貪汚)の名を受けた。いわゆる『過ちを観てその仁を知る(観過斯知仁矣)』というものである。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。「観過斯知仁矣」は『論語』にある孔子の言葉です。ここでは「孫性が犯した過ち(民から勝手に税を徴収したこと)を観たおかげで、孫性の父を思う心を知ることができた」という意味で引用しています。
呉祐は孫性を帰して父に謝らせ、衣服を孫性の父に贈りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月辛未(二十六日)、太尉桓焉と司徒劉寿を罷免しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
罕羌邑落の五千余戸が趙沖を訪ねて降りましたが、焼何種だけは参䜌(『資治通鑑』胡三省注によると、安定郡に属す県です)を占拠して帰順しませんでした。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲戌(二十九日)、三輔に駐屯していた行車騎将軍張喬の軍を撤収しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月壬午(初七日)司隸校尉下邳の人趙峻を太尉に、大司農胡広を司徒に任命しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、趙峻の字は伯師で、下邳徐の人です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
癸卯(二十八日)、順帝が大将軍と三公に詔を発しました。試用して優れた成績があり、将校に任命できる武猛の者(武猛試用有效験任為将校者)を各一人選ばせます。
 
 
 
次回に続きます。