東漢時代214 順帝(二十七) 南匈奴単于 143年

今回は東漢順帝漢安二年です。
 
東漢順帝漢安二年
癸未 143
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
春二月丙辰、鄯善国が使者を送って貢物を献上しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月庚戌(初八日)、護羌校尉趙沖と漢陽太守張貢が参䜌で焼何羌を撃って破りました。
 
資治通鑑』は、前年では「焼何羌」、本年では「焼当種」としています。「焼当」と「焼何」は別族なので、どちらかが誤りです。『後漢書西羌伝(巻八十七)』の記述では「焼何種」、『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では「焼当種」となっています。ここは『西羌伝』および『資治通鑑』の前年の記述(焼何羌)に従いました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
六月乙丑、熒惑(火星)が鎮星を犯しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙寅(二十五日)東漢南匈奴の守義王兜楼儲を呼蘭若尸逐就単于に立てました南匈奴単于は順帝永和五年140年に去特若尸逐就単于が殺されてから空位になっていました)
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では昨年六月に兜楼儲を単于に立てています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています。
 
当時、兜楼儲は京師にいました。
順帝が自ら臨軒(正殿から離れること)して璽綬を授け、単于を招いて上殿させてから、車馬器服金帛を甚だ厚く下賜しました。
その後、順帝が太常、大鴻臚と諸国の侍子(入侍している人質)に詔を発し、広陽門外で単于のために祖会(祖道の会。道の神を祀って餞別すること)を設けさせました。酒宴を開いて賞賜を与え(饗賜)、音楽を奏で(作楽)、角抵百戲を上演します(「角抵」は格闘技の一種、「百戲」は雑技などの演芸です)
資治通鑑』胡三省注によると、太常は音楽を担当し、大鴻臚は四夷の客を管理するので、この二官に詔が下されました。広陽門は雒陽城西面の南に位置する門です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
冬十月辛丑、郡国と中都官に命じ、死刑囚(繋囚殊死)以下の囚人に縑(絹の一種)を出して贖罪させました。納める量は刑によって差があります。縑を納める能力がない者は臨羌県に送って二年の「居作労務に従事する刑)」に処しました。
 
甲辰、百官の奉(俸禄)を減らしました。
 
丙午、酒の売買を禁止しました(禁沽酒)
また王侯国の租を一年間寛免しました(又貸王侯国租一歳)
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏十月、趙沖が阿陽で焼当羌を撃って破りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、使匈奴中郎将扶風の人馬寔が人を送って句龍吾斯を刺殺しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
十二月、楊(「揚」の誤りです)徐二州の盗賊が城寺(城壁や官署)を攻めて焼き、吏民を殺略しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年九月から涼州で百八十回の地震があり(地百八十震)、山谷が裂けて城寺(城壁官署)が破壊され、民の多くが圧死しました(『後漢書五行志四』は本年九月から建康元年(翌年)四月までに百八十回の地震があったとしています。しかし『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では翌年正月の詔で「百八十回の地震があった」と言っています)
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、左雄が孝廉の選挙について上奏しましたが(順帝陽嘉元年132年参照)尚書黄瓊が「これでは儒学に精通した者と文吏だけを用いることになり、優秀な士を得るという義(道理)において遺漏がある」と考えました。
そこで孝廉の対象に孝悌と従政(政治を行うこと)の能力がある者を増やして四科(「儒者」「文吏」「孝悌」および「能従政者」)にするように上奏しました。
順帝はこれに従いました。
 
 
 
次回に続きます。