東漢時代216 順帝(二十九) 皇甫規 144年(2)

今回は東漢順帝建康元年の続きです。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚戌(十六日)(梁太后が)三公、特進、侯卿、校尉に詔を発して賢良方正、幽逸修道(隠居して道を修めること)の士を推挙させ、策問しました。また、百僚全てに封事(密封した上書)を提出させました。
 
皇甫規が策問に答えて言いました「伏して考えるに、孝順皇帝が王政に勤めたばかりの時は、四方を紀綱(管理)して安寧を獲られそうでしたが(幾以獲安)、後に姦偽に遭い、威(権威)が近習(近臣)に分けられました。(彼等は)賄賂を受けて官爵を売り(受賂売爵)、賓客が交錯し、天下が擾擾(混乱の様子)としたため、(人々にとって)乱に加わることが家に帰ることのようになり(従乱如帰)、官民が共に尽きて上下が窮乏しました(官民並竭,上下窮虚)。陛下(梁太后の体は乾坤を兼ねており(天地の徳を兼ねており。「乾」は天陽、「坤」は地陰です。梁太后は天下の母として朝廷に臨み、天子の代わりに天下を治めるので、陰陽の徳を兼ねることになります)、聡哲が純茂(旺盛)で、摂政の初めに忠貞を抜用(抜擢任用)し、他にも維綱(法令)の多くを改正したので、遠近が一つになって太平を見ることを望んでいます(翕然望見太平)。しかし災異は止まず、寇賊が縦横しています。これは恐らく姦臣の権が重いことが原因です。
常侍で特に無状の者(善行がない者。素行が悪い者)は、速やかに黜遣(排斥駆逐)し、凶党を披掃(掃除)して、財賄(財物)を收入(没収)することで、痛怨(民の痛苦と怨恨)を塞いで天誡に答えるべきです。大将軍・梁冀と河南尹梁不疑も謙節を修めて増やし、儒術を身に着けて自分の助けとし(輔以儒術)、遊娯や不急の務(急がない事務、出費)を省いて去り、廬第(邸宅)における無益の飾(装飾)を割いて減らすべきです。君(国君)は舟であり、民は水()であり、群臣は舟に乗る者であり、将軍兄弟は檝(かじ)を操る者です。もし心を一つにして尽力することで(平志畢力)元元(民衆。川)を渡ることができれば、いわゆる福となります。逆にもし怠弛(怠惰)によって波濤に没することになるなら(将淪波濤)、慎重にしないわけにはいきません(可不慎乎)。徳が禄と釣り合わないのは、壁の足元を削って高さを増すのと同じです(猶鑿墉之趾以益其高)。これ(徳に釣り合わない俸禄を与えること)が力を量って功を調べ、安固(安定、平安)させる道でしょうか(豈量力審功安固之道哉)。全ての宿猾(巨悪)、酒徒、戲客(娯楽を提供する門客)を皆貶斥(降格排斥)することで不軌(道を外した者)を懲らしめ、梁冀等には深く得賢の福(賢人を得る福)と失人の累(人を失う累。相応しくない人材を用いる罪。「累」は「罪、過失」の意味です)を考えさせるべきです。」
 
梁冀は皇甫規の回答に憤怨し、下第(成績が劣ること)として郎中に任命しましたが、病を理由に罷免して帰郷させました。
しかも州郡が梁冀の意を受けていたため、皇甫規は再三にわたって陥れられ、危うく命を落とすところでした。皇甫規は家で埋没して十余年を過ごすことになります。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
己未(二十五日)、九江太守丘騰が罪を犯したため下獄されて死にました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、丘騰は自分の罪が重いことを知っていたため(罪の内容はわかりません)、姦巧(狡猾な企み)を抱いて道中で停留しましたが、獄に下されて死にました。
 
[十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
揚州刺史尹耀と九江太守鄧顕が范容等を歴陽で討ちましたが、敗れて二人とも殺されました。
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、日南の蛮夷がまた叛し、県邑(『資治通鑑』では「県邑」、『孝順孝沖孝質帝紀』では「城邑」です)を攻めて焼きました。
しかし交趾刺史九江の人夏方が招誘して降しました。
 
[十五] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
壬申、常山王劉儀が死にました。
 
劉儀の諡号は頃王で、靖王劉章の子です。劉章は明帝の孫、淮陽頃王劉昞の子です。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉儀の死後、子の節王劉豹が継ぎました。
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
己卯、零陵太守劉康が無辜(無罪の者)を殺した罪に坐し、獄に下されて死にました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
十一月、九江の盗賊徐鳳、馬勉が城邑を攻撃して焼きました。
徐鳳は「無上将軍」を、馬勉は「皇帝」を名乗り、当塗山中(当塗県の山中)に営塁を築き、年号を建てて百官を置きました。
 
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では本年十一月に「九江の盗賊徐鳳、馬勉等が『無上将軍』を称し、城邑を攻めて焼いた」、翌年三月に「九江の賊馬勉が『黄帝』を称した」と書いています。『後漢書張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』はこれを本年に書いていますが、馬勉は「皇帝」ではなく「黄帝」を称したとしています。『資治通鑑』の「皇帝」は「黄帝」の誤りではないか思われます。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
己酉、郡国と中都官に命じ、繋囚(囚人)から死一等を減らして辺境に送らせました。但し、謀反大逆はこの令を用いませんでした。
 
[十九] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、九江賊黄虎等が合肥を攻めました。
 
[二十] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、群盗が憲陵(順帝陵)を盗掘しました。
 
 
 
次回に続きます。