東漢時代218 沖帝(二) 詔書 145年(2)

今回は東漢沖帝永嘉元年の続きです。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
二月、豫章太守虞続が貪汚の罪に坐し、獄に下されて死にました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙酉(二十四日)、天下に大赦しました。
()爵位および粟帛をそれぞれ差をつけて下賜しました。
王侯から削った戸邑を返還しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
彭城王劉道が死にました。
 
劉道の諡号は考王で、靖王劉恭の子、明帝の孫です。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、子の頃王劉定が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
西羌が叛して年を重ね、東漢の出費は八十余億に上りました。
しかも諸将の多くが牢稟(食糧)を断盗(盗み取ること)して自分を潤し、皆、珍宝を賄賂にして左右(皇帝の近臣)に贈りました。
上下が放縦して軍事を考慮せず、死ぬべきではない士卒の白骨が野に並びます(士卒不得其死者白骨相望於野)
 
しかし左馮翊梁並が恩信によって叛羌を招いたため、離湳、狐奴等の五万余戸が全て梁並を訪ねて投降しました。隴右が再び安定します。
後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、梁並は大将軍梁冀の宗人(宗族)で、鄠侯に封じられました。邑は二千戸です。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
徐州や揚州の盗賊がますます盛んになりました。
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』は本年三月に「九江の賊馬勉が『黄帝』を名乗った」と書いていますが、『資治通鑑』では前年に「皇帝」を名乗っています(前年参照)
 
太后が広く将帥を求めると、三公が涿令北海の人滕撫(『資治通鑑』胡三省注によると、滕氏は滕侯の子孫で国名が氏になりました)に文武の才があるとして推挙しました。
(梁太后は)詔によって滕撫を九江都尉に任命し、中郎将趙序と共に馮緄を助けさせました。滕撫等は州郡の兵数万人を合わせて共に討伐に向かいます。
また、朝廷は広く懸賞を公開し、功績に応じて銭(賞賜)や邑(封邑)を与えることにしました(広開賞募,銭邑各有差)
太尉李固を派遣することも議論されましたが、行動に移す前に状況が変わりました。
 
三月、滕撫等が進軍して衆賊を攻撃し、大破しました。馬勉、范容、周生等千五百級を斬ります。
徐鳳は余衆を率いて東城県を焼きました。
資治通鑑』胡三省注によると、東城県は九江郡に属します。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、馬勉の首と馬勉が帯びていた玉印や鹿皮冠、黄衣が洛陽(雒陽)に送られました。(太后)詔を発してそれらを夏城門外に掲げ、百姓に示しました。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏四月壬申、雩(雨乞い)の儀式を行いました。
 
[十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
庚辰、済北王劉安が死にました。
 
劉安(または「劉安国」)諡号は釐王で、故済北恵王劉寿の子、章帝の孫です(順帝永和四年139年参照)。『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉安の死後、子の孝王劉次が継ぎました。
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
丹陽の賊陸宮等が城を包囲して亭寺(駅亭。駅の官署)を焼きましたが、丹陽太守江漢がこれを撃破しました。
 
[十五] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
夏五月、下邳の人謝安が募集に応じ、宗親を率いて伏兵を設け、徐鳳を撃って斬りました。
朝廷は謝安を平郷侯に封じました。
滕撫は中郎将に任命され、揚徐二州の政務を監督することになりました(督揚徐二州事)
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
甲午、(梁太后が)詔を発しました「朕(この「朕」は恐らく梁太后の自称です)は不徳な身によって、母という立場に託して天下を治めていますが(または「皇帝が天下を母に託していますが」。原文「託母天下」)、布政(施政)が不明で、いつもその中(中庸)を失っています。春から夏にかけての大旱炎赫(「炎赫」は灼熱の様子です)に憂心京京(「京京」は憂いる様子です)としており、祷祈明祀を得て(祈祷や祭祀を行って)潤沢を蒙ることを願いました。(そのおかげで)先日、雨を得たものの、宿麦(冬麦)が頗る傷ついています。最近も陰雲がありましたが、また晴れてしまいました(比日陰雲還復開霽。「開霽」は雲が晴れることです)寝ても覚めても永嘆し、重く心に残って悲痛が解けません(寤寐永歎重懐惨結)。二千石や令・長が寛和を崇めず(尊重せず)、暴刻なためにこうなっているのでしょうか。
ここに中都官に命じ、繋囚(囚人)で罪が殊死(死刑)に当たらず、調査が終わっていない者は(考未竟者)全て保釈させ(または「暫く保釈させ」。原文「一切任出」)立秋を待つことにします。郡国で名山大沢があって雲雨を興せる場所は、二千石長吏がそれぞれ絜齊請祷(「絜齊」は恐らく「絜齋」で、「斎戒」の意味です。「請祷」は「祈祷」です)し、誠を極めて礼を尽くしなさい(竭誠尽礼)
また、兵役が年を連ね、(民が)死亡流離しており、あるいは支骸(肢体骸骨)が棺に収められず(不斂)、あるいは棺が停留して埋葬できていないので(停棺莫收)、朕は甚だ憐憫しています(朕甚愍焉)。昔、(西周)文王は枯骨も埋葬したので、人()がその徳に頼りました(帰心しました)。よって今、使者を送って案行(巡視)させることにします。もし家属がいない者(家属がいないため放置されている死体)および貧しくて資(財貨)がない者(貧しいため親族を埋葬できない者)がいたら、随時状況に応じて按撫救済を与え、そうすることで孤魂を慰めなさい(隨宜賜卹以慰孤魂)。」
 
[十七] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙辰(二十六日)(太后)詔を発しました「孝殤皇帝は休祚(帝位。「休」は「美」です)に永くいませんでしたが、位に即いて年を越え、君臣の礼が成立しました(即位踰年君臣礼成)。その後に孝安皇帝が統業を承襲(継承)しましたが、前世(先代。順帝)は恭陵(安帝陵)を康陵(殤帝陵)の上としたため、先と後が互いに入れ違い、秩序を失ってしまいました(先後相踰失其次序)。これでは宗廟の重(尊厳)を奉じて無窮の制を垂らす(残す)ことになりません。昔、定公が遡って祭祀の秩序を正し(追正順祀。『孝順孝沖孝質帝紀』の注が解説しています。春秋時代、魯閔公が即位して二年で死に、僖公が即位しました。僖公は閔公の庶兄ですが、閔公の臣になったので、序列では閔公の下に位置します。しかし文公は僖公の神位を閔公の上に置きました。定公の時代になってから、祭祀の序列が正されて僖公の神位が閔公の下に置かれました。『春秋穀梁伝』は定公を「正を貴んだ(貴正也)」と評価しました)、『春秋』がこれを善としました(称賛しました)。よって今これを正し、恭陵(安帝陵)を康陵(殤帝陵)の次に、憲陵(順帝陵)を恭陵(安帝陵)の次にさせ、親族の秩序を正しく並べて万世の法とします(以序親秩為万世法)。」
 
 
 
次回に続きます。