東漢時代221 質帝(二) 質帝暗殺 146年(2)

今回は東漢質帝本初元年の続きです。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
質帝は幼少(九歳です)でしたが聡慧(聡明)でした。
ある時、朝会の機会に梁冀を注視して(目梁冀)「これは跋扈将軍だ(此跋扈将軍也)」と言いました。
質帝の言葉を聞いた梁冀は深く憎みました。
 
「跋扈」は「凶暴」「横暴」を意味します(「勇壮」を意味することもあります)。『後漢書梁統列伝(巻三十四)』の注は「跋扈は強梁(暴虐惨忍)とほぼ同じである」と解説しています。『資治通鑑』胡三省注によると、「扈」は「山が低くて大きい様子(山卑而大)」、「跋」は「道を通らないで進むこと(不由蹊隧而行)」です。「強梁の人」は正しい道を通らずに山を越えようとするので、「跋扈」といいました。傲慢、放縦といった意味が含まれます。
 
閏六月甲申(初一日)、梁冀が左右の者を使って秘かに鴆毒を煑餅(煮餅)の中に入れ、質帝に進めさせました。
「煑餅」は「湯餅」ともいいます。「餅」は小麦を練って作った食べ物で、「煑餅」はそれを汁に入れて煮たものです。『資治通鑑』胡三省注は「湯(湯餅)は煮麪(煮た麺)である」と書いているので、湯麺(スープに入った麺)かもしれません。但し、現在の細い麺とは異なり、平らで幅が広い麺だと思います。
 
煑餅を食べた質帝はひどく苦しみ(帝苦煩盛)、人を送って急いで太尉李固を招きました。
李固が入室して前に進み、質帝に病の原因を問いました。質帝はまだ話すことができたので、「煑餅を食べた。今は腹中が苦しい(原文「腹中悶」。「悶」は「うまく通らないこと」「すっきりしないこと」です)。水を得ればまだ活きられるだろう(水を飲めばよくなるだろう。原文「得水尚可活」)」と答えました。
この時、梁冀もそばに居り、「嘔吐の恐れがあります。水を飲んではなりません(恐吐,不可飲水)」と言いました。
梁冀の言葉が終わる前に質帝の息が絶えました。玉堂前殿での事件で、質帝はまだ九歳でした。
李固は死体に伏して号哭し、侍医を弾劾して責任を追及しました(推挙侍医)
梁冀は質帝暗殺の真相が漏れること憂慮し、李固を大いに嫌いました。
 
質帝の後嗣について議論する前に、李固と司徒胡広、司空趙戒が梁冀に書を届けました「天下に幸がなく連年の間に国祚(帝位)が三絶しました(順帝の死後、沖帝が即位して一年で死に、質帝も一年で死にました。これが「三絶」です。原文「天下不幸頻年之間国祚三絶」)。今、帝を立てるに当たって、天下が器(帝位)を重んじており、誠に太后の垂心(関心)と将軍の労慮によってその人(相応しい後継者)を詳しく択び、聖明の存続に務めていることを知っています。しかし愚情(臣等の心情)も眷眷(誠懇の様子)とし、心中にただ思いを抱いています(愚情眷眷竊独有懐)。遠くは先世が廃立した旧儀を尋ね(考察し)、近くは国家践祚(皇帝即位)の前事を見るに、公卿を詢訪(意見を求めること)しなかったことはなく、広く群議を求めて、上は天心に応じさせ、下は衆望に符合させました。『伝』はこう言っています『天下を人に与えるのは易しく、天下のために人を得るのは難しい(原文「以天下与人易,為天下得人難」。『孟子』の言葉です)。』昔、昌邑が立った時、昏乱(昏迷無道)が日に日に増えたため(昏乱日滋)、霍光は憂愧(憂いて慚愧すること)発憤し、これを悔いて骨を折りました(悔恨が極まりました。原文「悔之折骨」)。博陸(博陸侯霍光)の忠勇と延年(田延年)の奮発がなかったら、大漢の祀(宗廟の祭祀)は危うく傾いていたところです西漢昭帝元平元年74年参照)。至憂至重(最も憂慮し、最も重視すべきこと)を熟慮しないわけにはいきません。万事を悠悠としても、この事だけは大事とするべきです(万事を後回しにしても、新帝擁立の事だけは重視するべきです。原文「悠悠万事唯此為大」)。国の興衰はこの一挙にかかっています。」
 
書を得た梁冀は三公、中二千石、列侯を集めて擁立について大議しました。
李固、胡広、趙戒および大鴻臚杜喬は、清河王劉蒜が明徳で名を知られていたおり、皇族の中で最も尊親だったので(『資治通鑑』胡三省注によると、「尊(尊貴な立場)」は劉蒜が質帝の兄(従兄)に当たること、「親(親しい関係)」は質帝と同じ楽安王劉寵の孫に当たることを指します。沖帝永嘉元年145年参照)、劉蒜を後嗣に立てれば朝廷で帰心しない者はいないと考えました。
しかし宦者は劉蒜を憎んでいました。中常侍曹騰がかつて劉蒜に謁見した時、劉蒜が礼を為さなかったからです。
 
安帝元初六年119年)に平原王劉得(哀王)が死に、子がいなかったため、翌年、河間王劉開(孝王。章帝の子)の子劉翼が平原王に立てられました。
しかし劉翼は安帝建光元年121年)に王位を除かれて都郷侯に落とされ、河間国に還りました。
その後(『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると「順帝永建五年130年)」の事です)、劉開が蠡吾県を割いて劉翼を封侯するように請い、順帝が許可しました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代の蠡吾県は涿郡に属しましたが、当時は河間国に属していました。しかし『後漢書・郡国志二』では、蠡吾は中山国に書かれており、『中国歴史地図集(第二冊)』でも中山国に属しています。中山国と河間国は隣接しています。
後に蠡吾県から分かれて博陵県が置かれ(下述します)、更に博陵県が中山国から分かれて郡になるので桓帝延熹元年・158年)、蠡吾県も中山国に属していたようです。
 
本文に戻ります。
劉翼の死後、子の劉志が蠡吾侯を継ぎました。
太后が妹を劉志に嫁がせたいと欲したため、夏門亭(『孝桓帝紀』の注によると、夏門は洛陽(雒陽)城北面西側の門です。門外に万寿亭がありました)に招きました。この時、ちょうど質帝が死にます。
そこで梁冀は劉志を擁立しようとしました。しかし衆論は自分の意見と異なります。梁冀は憤憤として不満を抱きましたが、強引に決断を下す特別な口実もありませんでした(憤憤不得意而未有以相奪)
 
梁冀の意向を聞いた曹騰等が夜の間に梁冀を訪ね、こう説得しました「将軍は累世に椒房の親があり(将軍は代々皇后の親族であり。「椒房」は皇后の意味です。かつては和帝の母・梁貴人(恭懐后)がおり、当時は梁太后(順帝の皇后)が聴政していました)、政権を掌握し(秉摂万機)、賓客が縦横していて、多くの過差(過失)があります(代々外戚として政権を掌握しており、賓客が各地にいるので、政治上の失敗や賓客が犯した過失が多数あるはずです)。清河王は厳明なので、もしも本当に立ったら、将軍が禍を受けるのも久しくありません。(清河王ではなく)蠡吾侯を立てるべきです。そうすれば富貴を長く保つことができるでしょう。」
梁冀はこの言葉に納得しました。
 
翌日、梁冀が改めて公卿を集めました。
梁冀の意気が凶凶(強暴な様子)しており、言辞が激切だったため、胡広、趙戒以下の群臣で畏れない者はなく、そろって「ただ大将軍の令があるだけです(惟大将軍令)」と言いました。
李固と杜喬だけが元の意見を堅守します。
梁冀が厲声で(厳しい口調で。怒鳴って)「解散(罷会)!」と言いましたが、李固は衆心が清河王に属していると考え、まだ擁立できると期待して、再び書を送って梁冀を説得しました。
しかし梁冀はますます激怒しました。
 
梁冀は禁中で妹の梁太后を説得し、蠡吾侯擁立の策を定めます。
丁亥(初四日)、まず太尉李固を策免しました。
 
戊子(初五日)、司徒胡広を太尉に、司空趙戒を司徒に任命し、大将軍梁冀と共同で尚書の政務を管理させることにしました(参録尚書事)
また、太僕袁湯を司空に任命しました。
袁湯は袁安(章帝和帝時代の三公)の孫です。
 
庚寅(初七日)(梁太后が)大将軍梁冀に符節を持たせ、王青蓋車で蠡吾侯劉志を迎えて南宮に入らせました。
同日、劉志が十五歳で皇帝の位に即きました。これを桓帝といいます。
太后が継続して朝政に臨みました。
『孝桓帝紀』の注によると、梁太后は却非殿に登りました。
 
秋七月乙卯(初二日)、孝質皇帝を静陵に埋葬しました。
『孝桓帝紀』の注によると、静陵は洛陽(雒陽)東南三十里に位置し、陵の高さは五丈五尺、周囲は百三十八歩ありました。
 
 
 
次回に続きます。