東漢時代223 桓帝(一) 杜喬の諫言 147年(1)
孝桓皇帝
名を劉志といい、章帝の曾孫、河間孝王・劉開の孫、蠡吾侯・劉翼の子です。母は匽氏です。
匽氏の名は明で、蠡吾侯・劉翼の媵妾でした。
劉翼が死んでから、劉志が蠡吾侯を継ぎました。
閏六月庚寅(初七日)、梁冀が劉志を迎えて南宮に入れました。
同日、劉志が皇帝の位に即きました。年は十五歳です。
梁太后が引き続き朝政に臨みました。
前年の出来事は既に書いたので再述は避けます。
丁亥 147年
春正月辛亥朔、日食がありました。
男子に一人当たり二級の爵を、父の後を継ぐ立場の者および三老・孝悌・力田には一人当たり三級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・篤𤸇(重病の者)・貧しくて自存できない者に一人当たり五斛の粟を、貞婦に一人当たり三匹の帛を与えました。
災害のため損失が十分の四以上に及んだ者(災害所傷什四以上)は田租を徴収せず、十分の四に及ばない者も実情に応じて免除することにしました。
二月、荊揚二州で多くの人が餓死しました。
朝廷は四府掾を派遣して別れて巡幸させ、民を賑給(救済)しました。
(恐らく梁太后が)詔を発し、大将軍、公卿、校尉に賢良方正で直言・極諫できる者を各一人挙げさせました。
また、列侯、将、大夫、御史、謁者、千石、六百石、博士、議郎、郎官に命じ、それぞれ封事(密封した上書)を提出して政事の得失を指摘させました。
『孝桓帝紀』の注によると、「将」は五官、左・右、虎賁、羽林の中郎将です。「大夫」は光禄、太中、中散、諫議大夫です。「博士」は古今の事物に精通している官で、比六百石です。「議郎」も比六百石です。「郎官」は三中郎将の属官で、中郎、侍郎、郎中がいます。
更に詔を発し、大将軍、公卿および郡国に至孝・篤行の士を各一人挙げさせました。
また、長吏が貪汚の罪を犯してその額が三十万を満たしても糾弾・検挙されなかったら(臧満三十万而不糾挙者)、刺史・二千石(郡太守や国相)に縦避の罪(罪人を刑から逃れさせた罪。罪人を匿った罪)を問い、もし勝手に印綬(対象は刺史や二千石の印綬だと思います。長吏も含むかもしれません)を貸し借りする者(擅相假印綬者)がいたら、殺人と同罪とみなして弃市(棄市)に処すことにしました。
丙午(二十七日)、(恐らく梁太后が)詔を発し、郡国の繋囚(囚人)から死罪一等を減らして笞打ちの刑も与えないように命じました(減死罪一等勿笞)。ただし、謀反大逆の罪を犯した者にはこの詔書を用いませんでした。
また詔して言いました「最近、陵塋(陵墓)を起こして静陵(質帝陵)を造ったが、時歳を彌歴して(長い時間を経歴して)力役が拡がっており(労役が増えており)徒隷は特に勤めている(勤労辛苦している)。この頃は雨沢を得られず、密雲も散ってしまったが(雨沢不沾密雲復散)、あるいはここに原因があるのかもしれない。『易』はこう言っている『密雲があっても雨が降らない。(雲は)我が西郊から来る(原文「密雲不雨,自我西郊」。雲が集まってもまだ力が足りないので雨が降らない。兆候があってもまだその時ではないので実現しないという意味です)。』よってここに令を下し、陵を造る徒はそれぞれ六カ月の刑を減らすことにする。」
阜陵王・劉代の兄・勃遒亭侯・劉便を阜陵王に立てました。
阜陵王は光武帝の子・劉延(質王)から始まります。劉延の子・劉沖(殤王)、劉沖の兄・劉魴(頃王)、劉魴の子・劉恢(懐王)と続き、劉恢の子・劉代(節王)に後嗣がいなかったため途絶えていましたが(沖帝永嘉元年・145年参照)、今回、劉代の兄・劉便が改めて阜陵王になりました。劉便の諡号は恭王です。
六つの郡国で地が裂け、水が湧いて井戸が溢れました。
芝草(霊芝)が中黄藏府に生えました。
『孝桓帝紀』の注によると、中黄藏府は幣帛・金銀や諸貨物を管理しました。
六月、太尉・胡広を罷免して、光禄勳・杜喬を太尉に任命しました。
李固が廃されてから朝野が気を喪失し、群臣は恐れてまともに立つこともできなくなりました(原文「側足而立」。足を横に向けて立つという意味で、畏怖のため正面を向い立てない様子を表します)。
しかし杜喬だけが色(姿勢。様相)を正して回橈(屈服)しなかったため、朝野が皆、期待しました。
更に中常侍・劉広等を全て列侯に封じました。
杜喬が桓帝を諫めて言いました「古の明君は皆、用賢(賢人を用いること)と賞罰を務(大事)としました。失国の主においては、その朝に貞幹の臣(「貞幹」は「楨榦」とも書き、支柱・骨幹を意味します。「貞幹の臣」は国を支える賢臣です)がおらず、典誥の篇(典章・詔令。ここでは賞罰を定めた制度を指します)がなかったのでしょうか。患いるのは、賢を得てもその謀を用いず(得賢不用其謀)、書を隠してその教えを施さず(韜書不施其教)、善を聞いてもその義を信じず(聞善不信其義)、讒を聞いてもその理(道理。真実)を審理しないことです(聴讒不審其理也)。
陛下は藩臣から即位して天人が属心(帰心)していますが、忠賢の礼を急がず左右の封を優先しました。梁氏一門や宦者微孽(宦官のように賎しい者)がそろって無功の紱(印綬)を帯び、労臣の土を裂き、その乖濫(道理から外れて不当なこと)の様子は言葉にすることができません(其為乖濫胡可勝言)。功があっても賞しなかったら、善を為した者がその望を失います(失望します)。姦回(姦悪)を詰問しなかったら、悪を為す者がその凶をほしいままにします。そうなったら、資斧(鋭利な斧)を置いても人は畏れを抱かず(陳資斧而人靡畏)、爵位を設けても物が勧めること(爵位褒賞が善を奨励すること)はありません(班爵位而物無勧)。もしもこのような道を行ったら、どうして政を傷つけて乱を為すだけですむでしょう。身を失って国を亡ぼすことになるので、慎重にしないわけにはいきません(豈伊傷政為乱而已,喪身亡国可不慎哉)。」
上書が提出されましたが、聞き入れられませんでした。
『後漢書・李杜列伝(巻六十三)』では、杜喬が太尉になる前にこの諫言をしています。しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は太尉になった後に書いており、『資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』に従っています。
次回に続きます。