東漢時代225 桓帝(三) 元服 148年

今回は東漢桓帝建和二年です。
 
東漢桓帝建和二年
戊子 148
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(十九日)桓帝元服しました(加元服
庚午(二十五日)、天下に大赦しました。
 
河閒王(河間王)劉建と勃海劉悝にそれぞれ黄金百斤を、彭城諸国王(彭城王劉定等の諸国王)にそれぞれ五十斤を下賜しました。
桓帝は河間孝王劉開の孫で、当時の河間王劉建も劉開の孫に当たります。桓帝の父は蠡吾侯劉翼、劉建の父は恵王劉政です。劉建は河間王家の大宗(本家)に当たります。
勃海劉悝は桓帝の弟です。
 
公主、大将軍、三公、特進、侯、中二千石、二千石、将、大夫、郎吏、従官、四姓(有力な外戚および梁氏と鄧氏の小侯(功臣や外戚の子孫で封侯されていない者)、諸夫人以下の者にそれぞれ差をつけて帛を下賜しました。
八十歳以上の者に米・酒・肉を与え、九十歳以上の者には帛二匹と綿三斤を加えました(八十歳と九十歳が「民衆」を対象にするのか、「公主から諸夫人以下の者」を対象にするのかははっきりしません。今までの皇帝も元服の後、民に恩恵を施しているので、恐らく「民衆」が対象だと思われます)
 
尚、本年、桓帝元服しましたが、梁太后桓帝に政権を還すのは二年後、桓帝和平元年150年)の事です。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊辰(二十四日)桓帝が皇太后に従って大将軍梁冀の府を行幸しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
白馬羌が広漢属国を侵して長吏を殺しました。
益州刺史が板楯蛮を率いて討伐し、これを破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、安帝が蜀郡北部都尉を広漢属国都尉に改めました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙子(初三日)桓帝が弟の劉顧を平原王に封じて孝崇皇桓帝の父劉翼)の祀を奉じさせました。
孝崇皇夫人馬氏(劉翼の妻)を尊んで孝崇園貴人にしました。
 
「劉顧」の名ですが、『後漢書皇后紀下』では「桓帝の弟平原王劉石」としており、『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』では「都郷侯劉碩を平原王にした」と書いています。
中華書局『後漢書桓帝紀』の校勘記は「『碩』とするのが正しく、『顧』は形が近いので誤り、『石』は音が近いので誤ったのである」と解説しています。『資治通鑑』は『孝桓帝紀』から誤ったまま引用して「劉顧」と書いています。
 
[五] 『後漢書桓帝紀』からです。
嘉禾が大司農の帑藏(金布を所蔵する倉庫)に生えました。
 
[六] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月癸丑(初十日)、北宮掖庭内の徳陽殿と左掖門で火災がありました。
車駕(皇帝)が南宮に移りました。
 
[七] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
前年、清河王劉蒜が罪に坐して自殺しました。
六月、清河を甘陵に改め、安平孝王劉得の子経侯(『資治通鑑』胡三省注によると、経は安平国に属す県です)劉理を甘陵王に立てて孝徳皇(劉慶)の祀を奉じさせました。
 
甘陵は孝徳皇陵(劉慶の墓陵)です。陵名が国名になりました。
劉慶は清河孝王で、章帝の子、安帝の父です。
劉得は「劉徳」とも書き、河間孝王劉開の子です。劉開は章帝の子です(安帝延光元年122年参照)
 
[八] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、京師で大水(洪水)がありました。
 
[九] 『後漢書桓帝紀』からです。
河東が「木連理(根が異なる木の枝が絡まって一つになること)」を報告しました。
 
[十] 『後漢書桓帝紀』からです。
冬十月、長平の人陳景が自ら「黄帝の子」と号し、官属を置きました。
また、南頓の人管伯も「真人」と称しました。
二人とも挙兵を図りましたが、誅に伏しました。
 
 
 
次回に続きます。