東漢時代227 桓帝(五) 荀淑 陳寔 鍾皓 鐘瑾 149年(2)

今回は東漢桓帝建和三年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、元朗陵侯相(朗陵侯国の相)荀淑が死にました。
 
荀淑は若い頃から博学で高行(高尚な品行)があり、当世の名賢李固や李膺が師として尊びました。
朗陵では政務を処理して公明だったため(涖事明治)、神君と称されました。
荀倹、荀緄、荀靖、荀燾、荀汪、荀爽、荀粛、荀專(あるいは「荀尃」)という八人の子がおり、そろって名声があったため、当時の人々は「八龍」と称しました。
また、荀淑が住んでいた里は旧名を西豪といいましたが、かつて高陽氏(顓頊)にも八人の才子がいたため、潁陰令渤海の人苑康(『資治通鑑』胡三省注によると、商(殷)武丁の子子文が苑に封じられたため、地名を氏にしました。『左伝』では斉の大夫に苑何忌がいます)が「高陽里」に改名しました。
 
李膺の性格は簡亢(清高)で、人と交流することがなく、荀淑だけを師とし、同郡の陳寔だけを友にしました(『後漢書党錮列伝(巻六十七)』によると、李膺は潁川襄城の人です)
荀爽がかつて李膺を謁したことがあり、その機会に李庸のために車を御しました。
荀爽は帰ってから喜んで「今日、李君(の車)を御すことができた」と言いました。李庸が慕われていたことが分かります。
 
陳寔は単微(微賎)の出身で、潁川郡の西門亭長になりました。
同郡の鍾皓は篤行で名が知られており、前後九回も公府から招聘されていました。年齢も輩分(上下、長幼の秩序)も遠く陳寔の前にいます。しかし鍾皓は陳寔を招いて友にしました。
 
鐘皓は郡功曹を勤めた後、司徒府に招聘されました。郡を去る時、太守が問いました「誰が卿(汝)と代わることができるか?」
鐘皓が言いました「明府が必ずその人(適切な人材)を得たいと欲するなら、西門亭長陳寔が相応しいでしょう(西門亭長陳寔可)。」
陳寔はこれを聞いて「鍾君は人を察しないようだ(推挙できないようだ)。なぜ私しか知らないのだろうか(鐘君似不察人,不知何独識我)」と言いました。
太守は陳寔を功曹に任命しました。
 
当時、中常侍侯覧が縁故の者を出仕させるため、太守高倫に官吏として用いるように求めました。高倫は命令書(檄。下述します)に署名して文学掾に任命します(『資治通鑑』胡三省注によると、郡には文学守助掾六十人がいました)
しかし陳寔はこの者に能力がないことを知っていたため、檄を懐に入れて高倫に謁見を求めました。
資治通鑑』胡三省注によると、「檄」は板書です。高倫の命令は「檄」に書かれていました。懐に入れたのは、事が漏れるのを恐れたからです。
 
陳寔が言いました「この人は用いるべきではありません。しかし侯常侍には違えることができないので、寔(私)が外から署名することを乞います(原文「寔乞従外署」。功曹は官吏の業績を考察して人選を行う官です。陳寔は太守の代わりに命令書に署名することを願い出ました)。そうすれば、(太守の)明徳を汚すには足りません(不足以塵明徳)。」
高倫はこれに従いました。
郷論(郷里の世論)は陳寔が相応しくない人材を挙げたことを不可解に思って議論しました。しかし陳寔は最後まで何も言いませんでした。
 
後に高倫が朝廷に招かれて尚書になりました。郡中の士大夫が綸氏(県名)まで送ります。
この時、高倫が衆人に言いました「わしは以前、侯常侍のために吏を用いたが、陳君が秘かに教(命令書)を持って返却し、外で自ら署名した(原文「於外白署」。「白署」は「自署」の誤りではないかと思われます)。議者がこの事によって(陳寔を)軽視していると何回も聞いたが(または「最近聞いたが」。原文「比聞議者以此少之」)、この咎(罪)は故人(高倫を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、漢人は門生や故吏の前では自分を「故人」と称しました)が強禦(強権)を畏憚したことにある。陳君は『善があったら主君の功績と称し、過ちがあったら自分の責任と称す(原文「善則称君,過則称己」。『礼記』の言葉です)』という者であるといえる。」
陳寔はその後も自分の過失であると主張したため、これを聞いた者は嘆息(感嘆)するようになり、天下がその徳に服しました。
 
後に陳寔は太丘長になりました。
徳を修めて清静だったため、百姓が安寧になります。
鄰県の民で帰附した者がいても、陳寔はいつも訓導譬解(説明)して元の県に還らせました。
 
司官(主管の官員。ここでは県を監督する官)が視察した時、官吏は民の中に訴える者がいることを憂慮し、陳寔に訴訟を禁じるように進言しました。
しかし陳寔はこう言いました「訟(訴訟)とは直を求めるものだ。これを禁じたら、(彼等は自分の)理をどうやって述べるのだ(理将何申)。制限してはならない(または「逮捕してはならない。」原文「其勿有所拘」)。」
これを聞いた司官は嘆息して「陳君の言がこのようであるなら、どうして人に冤(怨み。冤罪)があるだろう」と言いました。
果たして司官に訴える者はいませんでした。
 
後に沛相が賦斂(税の徴収)において法に違えたため、陳寔は印綬を解いて去りました(『資治通鑑』胡三省注によると、太丘県は沛国に属します)
吏民は陳寔を懐かしんで思念しました。
 
鍾皓はかねてから荀淑と名声を等しくしていました。
李膺がいつも嘆息して言いました「荀君の清識(清高と見識)は尊ぶのが難しい(学ぶのが難しい)。鍾君の至徳は師(模範)とするべきである(荀君清識難尚,鍾君至徳可師)。」
 
鐘皓の兄の子を鐘瑾といい、その母は李膺の姑(父の姉妹)でした。
鐘瑾は好学で古を慕い、退譲(謙譲)の気風があったため、同年の李膺と共に名声がありました。
李膺の祖父に当たる李脩が常にこう言っていました「鐘瑾は我が家の性(性格。性質)に似ている(『資治通鑑』胡三省注によると、鐘瑾の母が李氏の出で、しかも鐘瑾に退讓の気風があったことを指します)。『国に道(道理)があれば廃されず、国に道がなくても刑戮を免れられる(原文「邦有道不廃,邦無道免於刑戮」。『論語』言葉です)』というものだ。」
 
鐘瑾は李膺の妹を妻にしました。
 
後漢書荀韓鍾陳伝(巻六十二)』はここで「鐘瑾は州府に招聘されたが、志を屈した(曲げた)ことがなかった」と書いています。『三国志魏書鍾繇華歆王朗伝(巻十三)』の注にも鐘皓、鐘瑾に関して『資治通鑑』とほぼ同じ記述があり、「(鐘瑾は)李膺の妹を妻にした」の後に「鐘覲は州宰に招聘されたが、屈就(屈服)したことがなかった」と書かれています。
しかし『資治通鑑』では「鐘瑾が志を屈しなかった」という記述が抜けています。
 
資治通鑑』に戻ります。
李膺が鐘瑾に言いました「孟子は『人に是非の心がなかったら人ではない(人無是非之心非人也)』と考えた。弟(汝)はこれにおいてどうして白黒(是非)を全くわきまえないのだ(於是何太無皁白邪)。」
恐らく、「志(退譲の気風)を曲げる必要もある」「退讓するだけでなく、白黒を正す必要もある」という意味だと思います。
 
鐘瑾が李膺の言葉を鐘皓に話すと、鐘皓はこう言いました「元礼李膺の字です)の祖父と父は位におり(『資治通鑑』胡三省注によると、李膺の祖父李脩は太尉になり、父の李益は趙相になりました)、諸宗が共に盛んなのでそうできたのだ(故得然乎)。昔、国子(斉の大夫国武子。国佐)は人の過ちを暴くことを好み(白黒をはっきりさせることを好み。『資治通鑑』では「好招人過」、『後漢書荀韓鍾陳伝』では「好昭人過」です)、そのため怨悪を招いた。今はどうしてその時(白黒をわきまえると時)だろうか(今豈其時邪)。必ず身を保って家を全うしたいと欲するなら、汝の道が貴い(高明である。原文「爾道為貴」)。」
 
後漢書荀韓鍾陳伝』は少し異なり、こう書いています。
李膺が鐘瑾に言いました「孟子は『人に是非の心がなかったら人ではない』と考えた。弟は何を思って孟軻孟子と同じくしないのだ?」
鐘瑾が李膺の言を鐘皓に話すと、鐘皓はこう言いました「昔、国武子は人の過ちを暴くことを好んで怨本を招いた。身を保って家を全うするなら、汝の道が貴い。」
 
 
 
次回に続きます。