東漢時代229 桓帝(七) 朱穆の諫言 150年(2)

今回は東漢桓帝和平元年の続きです。
 
[(続き)] 侍御史朱穆は梁冀の故吏(かつての官吏。部下)だったので、梁冀に文書を送って諫めました「明将軍は地(地位)に申伯(申国の伯。西周宣王の元舅(母の兄)の尊があり、位は群公の首となっているので(『資治通鑑』胡三省注によると、梁冀は朝廷で三公と離れて単独で座りました。特別な待遇を意味します)、一日善を行えば、天下が仁に帰します(一日でも善を行えば、天下が将軍の仁を思って帰心します)。しかし逆に終朝(朝。または一日)に悪を為せば、四海が傾覆(転覆)します。最近、官民が共に匱(欠乏)し、加えて水蟲(洪水や害虫)が害を為しているのに、京師諸官の費用は増加しており、詔書による発調(徴発)があるいは(平時の)十倍にも及んでいます。しかも各々(各官吏、各官署)が官には現有の財がないと言って全て民から出させ、搒掠(殴打、鞭打ち)割剝(搾取)し、強令によって数を満たしています(強令充足)。公賦が既に重いのに、私斂(官員の個人的な取り立て)もまた深く、牧守長吏の多くが徳によって選ばれたのではないので、貪婪な搾取に厭きることなく(貪婪無厭)、民に遇ったら虜(盗賊。仇敵)のようにみなしています。そのため(民の)ある者は箠楚棍棒。刑具)の下で絶命し、ある者は迫切の求(切迫した要求)によって自賊(自殺)しています。しかも百姓に対する掠奪(強奪)は全て尊府(大将軍府)が理由になっているので(大将軍の名義で行われているので。原文「皆託之尊府」)、将軍に天下の怨みを結ばせ、吏民が酸毒(痛恨。苦痛)して道路で歎嗟(嘆息)しています。
昔、永和(順帝時代)の末に綱紀が少し弛んだため、頗る人望を失い、わずか四五歳(年)で財が尽きて戸口が流散し(財空戸散)、下が離心を抱き、馬勉の徒が敝(隙。衰退)に乗じて起ち、荊揚の間で大患が生まれるところでした。幸い順烈皇后(梁太后が政治を始めたばかりで清静だったおかげで(初政清静)、内外が同力(協力)して、やっと討定(討伐平定)できたのです。
今は百姓が戚戚(畏れる様子。動揺する様子)として永和より困窮しています。内は仁愛の心が無ければ民に対して寛容になれず、外は国を守る計が無ければ久しく安定させることができません(意訳しました。原文「今百姓戚戚困於永和,内非仁愛之心可得容忍,外非守国之計所宜久安也」。誤訳かもしれません)。将相大臣とは元首(国君)と一体で(均体元首)、共に輿に乗って駆け、同じ舟で渡るものなので、輿が傾いて舟が転覆したら、実に患を共にすることになります。どうして明から去って昧(暗)に就き、危険を招きながら自分を平安にさせ、主が孤立して時局が困難なのに救済しないでいられるでしょう(豈可以去明即昧,履危自安,主孤時困而莫之卹乎)。宰守(地方官)でその人ではない者(相応しくない者)はすぐに交代させ、第宅(邸宅)園池の費を減省(削減)し、郡国が奉送する全ての物を拒絶するべきです。こうして内は自身を高明にし(内以自明)、外は人惑(民衆の疑い)を解き、挾姦の吏(姦悪を抱いている官吏)が依託するところを無くさせ、司察の臣が耳目を尽くせるようにします。憲度(法度)が既に張られたら遠近が清平になり(遠邇清壹)、その後、将軍は身が尊く事(業績)が顕かで、徳燿(徳の光。明徳)が無窮になるでしょう。」
梁冀は採用しませんでした。
 
梁冀は朝政を専断して縦横跋扈していましたが、桓帝の左右に仕える宦官とも交流しており、その子弟や賓客を州郡の要職に任命しました。桓帝の自分に対する恩寵を固めるためです。
朱穆が文書を送ってまた極諫しましたが、梁冀は最後まで悟ることなく、返書を送って「そのようにしたら僕(私)は一つも可がなくなってしまうではないか(原文「僕亦無一可邪」。「無一可」は「一つも取るべきところがない」という意味です。ここでは「何もなくなってしまう」「利益がない」といった意味を含むと思われます)」と伝えました。
梁冀はかねてから朱穆を尊重していたため、繰り返し極諫した朱穆を処罰することはありませんでした。
 
梁冀が楽安太守(楽安は王国でしたが、質帝本初元年146年に質帝の父楽安王劉鴻が勃海王に遷されてから郡になったようです)陳蕃に書を送って私事を請託したことがありましたが、使者は陳蕃に会えませんでした。
そこで使者は他の客の名を偽って陳蕃に謁見を求めました。
陳蕃は怒って使者を笞殺(鞭殺)します。
この事件が原因で陳蕃は罪に坐して脩武令(県令)に左遷されました。
 
当時、皇子が病を患ったため、桓帝が郡県に令を下して珍薬を購入させました。
梁冀はこれを機に客に書を持たせて京兆に送り、梁冀のために珍薬と一緒に牛黄(牛の胆嚢にできた結石。貴重な薬の一種です)を購入するよう要求しました(并貨牛黄)
京兆尹南陽の人延篤は梁冀の書を開くと客を逮捕し、「大将軍は椒房(皇后)の外家であり、しかも皇子に疾(病)があるので、必ず医方を進呈するはずだ(必応陳進医方)。どうして客を使って千里に利を求めるはずがあるか(豈当使客千里求利乎)」と言って殺しました。
梁冀は慚愧して何も言えませんでした。
しかし有司(官員)が梁冀の意に迎合して客を殺した件を追求するように求めたため、延篤は病を理由に罷免されました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月庚辰(十九日)、博園匽貴人桓帝の母)を尊んで孝崇皇后にしました。孝崇皇后は永楽宮に住むことになります。
資治通鑑』胡三省注によると、徳陽前殿西北の門を入った中に永楽宮がありました。
 
永楽宮には太僕を置き、少府以下、全て長楽宮西漢の皇太后の住居)の前例と同等にしました。
また、鉅鹿の九県を分けて孝崇后の湯沐邑(租税が邑主の収入になる地)にしました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、梓潼(県名)で山崩れありました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
冬十一月辛巳、天下の死罪を一等減らして辺戍(辺境の守備)に遷しました。
 
 
 
次回に続きます。