東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2)

今回は東漢桓帝元嘉元年の続きです。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。からです。
京師を旱害が襲いました。
また、任城や梁国を飢饉が襲いました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒張歆を罷免して光禄勳呉雄を司徒にしました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
北匈奴の呼衍王が伊吾を侵し、伊吾司馬毛愷を破ってから伊吾屯城を攻めました。
 
桓帝敦煌太守馬達に詔を発し、兵を率いて救援させました。
馬達が蒲類海に至ると、呼衍王は兵を率いて去りました。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、武陵蛮が反しました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
冬十月、司空胡広が致仕(引退)しました。
 
後漢書桓帝紀』は「司空胡広を罷免した(司空胡広罷)」と書いていますが、『後漢書鄧張徐張胡列伝(巻四十四)』は「告老致仕(老齢のため退職)」としています。『資治通鑑』は「列伝」に従っています。
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月辛巳(二十八日)、京師で地震がありました。
 
桓帝が詔を発し、百官に独行の士(世俗に流されない高い徳と志を持った賢人)を推挙させました。
そこで涿郡が崔瑗(安帝延光四年125年参照)の子崔寔を推挙しました。
崔寔は公車(官署名)を訪ねましたが、病と称して皇帝の策問に答えませんでした。
 
崔寔は退いてから世事を論じて『政論』を著しました。
山陽の人仲長統がその書を見て嘆息し、「人主となる者は皆、一通写して(一通り書き写して)坐側(席の傍)に置くべきだ」と言いました。
後漢書崔駰列伝(巻五十二)』と『資治通鑑』が『政論』を紹介していますが、別の場所で書きます。

東漢時代 『政論』


後漢書崔駰列伝』によると、崔寔は策問に答えなかったものの、郎に任命されています。
 
[十五] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月庚午(中華書局『白話資治通鑑』は「閏十二月庚午(十八日)」としています)、任城王劉崇(節王)が死にました。
子がいなかったため、国が廃されました。
 
章帝建初八年83年)、東平王劉蒼(「献王」。または「憲王」。光武帝の子)が死に、子の懐王劉忠が継ぎました。
その翌年(元和元年84年)、章帝が東平国を分けて劉忠の弟劉尚を任城王に封じました。
劉尚の諡号は孝王で、その後、貞王劉安、節王劉崇と継ぎましたが、劉崇に子がいなかったため廃されました。
資治通鑑』胡三省注は「劉崇は劉尚の姪(甥)」としていますが、「劉尚の孫」が正しいはずです。
 
[十六] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
太常黄瓊を司空に任命しました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
桓帝が梁冀を褒崇(褒賞尊崇)しようと欲し、中朝(朝廷)の二千石以上の官員に梁冀を遇す礼について討議させました。
特進胡広、太常羊溥、司隸校尉祝恬、太中大夫辺韶等が梁冀の勳徳は西周の周公と対等であるとみなし、山川土田附庸(諸侯国に準じる小国)を下賜するべきだと進言しました。
しかし黄瓊だけが反対してこう言いました「梁冀はこれ以前に親迎の労(自ら桓帝を迎えて擁立した功労)によって一万三千戸を増邑され、また、その子胤も封賞を加えられました。今、諸侯は戸邑を制としており、里数を限(限度。基準)にはしていません(諸侯の封国は戸数や邑の数を基準としており、面積の大小は基準にしていません。梁冀に対しても、面積を基準にして封地を増やすのではなく、邑数を基準にするべきです)。梁冀は鄧禹と比して(同等とみなして)、合わせて食四県にするべきです。」
朝廷はこれに従いました。
 
有司(官員)が意見をまとめて上奏しました「梁冀は『入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がないこと)』『剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま殿上に登ること)』『謁讃不名(入朝拝謁の際、礼官が姓名を呼ばないこと。百官が入朝する時は官名と姓名が読み上げられました)』とし、礼儀を蕭何に比します(同等にします。『資治通鑑』胡三省注は「蕭何は『剣履上殿』と『入朝不趨』の特権があっただけで、『謁讚不名』はなかった。主君の前で臣下が名を明らかにするのは礼である(君前臣名,礼也)。梁冀はどうして寵秩(寵愛と官位秩禄)がここに至ったのか」と批判しています)。定陶、陽成の余戸を増封して全部で四県とし、鄧禹に比します(『後漢書梁統列伝(巻三十四)』の注は「梁冀は最初に襄邑県を封じられ、後に乗氏県(梁商の封地世襲した。今回、更に定陶と陽城を増やされて四県になった」と書いています。しかし襄邑県は順帝陽嘉二年133年に封侯された時、辞退しており、桓帝建和元年147年に梁冀の子梁胤が襄邑侯に封じられています。梁冀は梁胤の封地も領有していたようです。また、『資治通鑑』胡三省注は「陽成」は「成陽」の誤りとしています。『後漢書郡国志三』によると、襄邑は陳留郡に、成陽、定陶、乗氏は済陰郡に属します)。金銭、奴婢、綵帛(色鮮やかな絹織物)、車馬、衣服、甲第(邸宅)を賞賜し、霍光に比します。こうして元勳(大功)を異ならせます(突出させます。原文「以殊元勳」)。また、朝会では常に三公と絶席(席を分けて単独で座ること)し、十日に一回入朝して尚書の政務を評議させます(平尚書事)。これを天下に宣布して万世の法とします。」
梁冀は上奏された礼がまだ薄い(足りない)と考え、心中で喜びませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代232 桓帝(十) 于窴の乱 152年