東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2)
京師を旱害が襲いました。
また、任城や梁国を飢饉が襲いました。
司徒・張歆を罷免して光禄勳・呉雄を司徒にしました。
馬達が蒲類海に至ると、呼衍王は兵を率いて去りました。
秋七月、武陵蛮が反しました。
冬十月、司空・胡広が致仕(引退)しました。
『後漢書・孝桓帝紀』は「司空・胡広を罷免した(司空胡広罷)」と書いていますが、『後漢書・鄧張徐張胡列伝(巻四十四)』は「告老致仕(老齢のため退職)」としています。『資治通鑑』は「列伝」に従っています。
そこで涿郡が崔瑗(安帝延光四年・125年参照)の子・崔寔を推挙しました。
崔寔は公車(官署名)を訪ねましたが、病と称して皇帝の策問に答えませんでした。
崔寔は退いてから世事を論じて『政論』を著しました。
山陽の人・仲長統がその書を見て嘆息し、「人主となる者は皆、一通写して(一通り書き写して)坐側(席の傍)に置くべきだ」と言いました。
東漢時代 『政論』
子がいなかったため、国が廃されました。
その翌年(元和元年・84年)、章帝が東平国を分けて劉忠の弟・劉尚を任城王に封じました。
太常・黄瓊を司空に任命しました。
しかし黄瓊だけが反対してこう言いました「梁冀はこれ以前に親迎の労(自ら桓帝を迎えて擁立した功労)によって一万三千戸を増邑され、また、その子・胤も封賞を加えられました。今、諸侯は戸邑を制としており、里数を限(限度。基準)にはしていません(諸侯の封国は戸数や邑の数を基準としており、面積の大小は基準にしていません。梁冀に対しても、面積を基準にして封地を増やすのではなく、邑数を基準にするべきです)。梁冀は鄧禹と比して(同等とみなして)、合わせて食四県にするべきです。」
朝廷はこれに従いました。
有司(官員)が意見をまとめて上奏しました「梁冀は『入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がないこと)』『剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま殿上に登ること)』『謁讃不名(入朝・拝謁の際、礼官が姓名を呼ばないこと。百官が入朝する時は官名と姓名が読み上げられました)』とし、礼儀を蕭何に比します(同等にします。『資治通鑑』胡三省注は「蕭何は『剣履上殿』と『入朝不趨』の特権があっただけで、『謁讚不名』はなかった。主君の前で臣下が名を明らかにするのは礼である(君前臣名,礼也)。梁冀はどうして寵秩(寵愛と官位・秩禄)がここに至ったのか」と批判しています)。定陶、陽成の余戸を増封して全部で四県とし、鄧禹に比します(『後漢書・梁統列伝(巻三十四)』の注は「梁冀は最初に襄邑県を封じられ、後に乗氏県(梁商の封地)を世襲した。今回、更に定陶と陽城を増やされて四県になった」と書いています。しかし襄邑県は順帝陽嘉二年・133年に封侯された時、辞退しており、桓帝建和元年・147年に梁冀の子・梁胤が襄邑侯に封じられています。梁冀は梁胤の封地も領有していたようです。また、『資治通鑑』胡三省注は「陽成」は「成陽」の誤りとしています。『後漢書・郡国志三』によると、襄邑は陳留郡に、成陽、定陶、乗氏は済陰郡に属します)。金銭、奴婢、綵帛(色鮮やかな絹織物)、車馬、衣服、甲第(邸宅)を賞賜し、霍光に比します。こうして元勳(大功)を異ならせます(突出させます。原文「以殊元勳」)。また、朝会では常に三公と絶席(席を分けて単独で座ること)し、十日に一回入朝して尚書の政務を評議させます(平尚書事)。これを天下に宣布して万世の法とします。」
梁冀は上奏された礼がまだ薄い(足りない)と考え、心中で喜びませんでした。
次回に続きます。