東漢時代 『政論』

崔寔が『政論』を著しました東漢桓帝元嘉元年151年)

東漢時代231 桓帝(九) 崔寔 151年(2)

 
崔寔は、儒者の古い考えに拘泥していては天下は治まらない、乱れた世には厳しい法も取り入れなければならないと説いています。
以下、『資治通鑑』から紹介します。
 

天下が治まらないのは、人主が承平(泰平)にいてその日が久しくなり、俗がしだいに廃れても悟らず(俗漸敝而不悟)、政治が徐々に衰敗しても改めず(政寖衰而不改)、乱に慣れて危に安んじ、自ら目撃したことを忘れるのが(混乱や危難があってそれを目撃しても忘れること、気に留めないことが。原文「習乱安危,怢不自覩」)常に原因となる。あるいは欲望に耽溺して万機(諸政務。国事)を考慮せず(荒耽耆欲不恤万機)、あるいは箴誨(教導諫言)に耳を覆って、姦偽に厭きず真実を軽視し(耳蔽箴誨厭偽忽真)、あるいは路に迷って(善悪を見極められないため)従うべきところを知らず(猶豫岐路莫適所従)(これらが原因で)あるいは見信の佐(信用できる輔佐の臣。近臣)が俸禄を守るために口を閉ざし(「括囊守禄」。「括囊」は袋の口を閉じることで、ここでは発言しないという意味です)、あるいは疏遠な臣が身分が低いために言を廃されている(言以賎廃)。こうして上において王綱が縦弛(弛緩)し、下において智士が鬱伊(憂鬱な様子)することになる。悲しいものだ(悲夫)

漢興以来、三百五十余歳(年)が過ぎ、政令が垢翫(汚濁混乱)して上下が怠懈(弛緩怠惰)し、百姓が囂然(憂愁の様子。または議論して騒がしい様子)して、皆、再び中興の救いを思っている。そもそも、済時拯世の術(世直しの方法)とは、決壊を補(補填修復)し、傾いた物を支えること枝拄邪傾)にかかっており、形に従って裁割(裁断。変更)するものであって、この世を安寧の域に置かなければならないだけのことである(原文「要措斯世於安寧之域而已」。世直しの方法には定型がなく、世の中を安定させることができるなら、どんな方法をとっても構わない)。だから聖人が権勢を握ったら、時に応じて制度を定め(聖人執権,遭時定制)、歩驟(段取り。ここでは政策の内容を意味します)にはそれぞれ差が設けられた(歩驟之差各有云設)。人ができないことは強制せず、急切(緊急の事)に逆らって聞いた事(目前には必要としないこと。古の文献に書かれたこと。下の文にもあります)を慕う(望む。求める)ようなこともなかった(不強人以不能,背急切而慕所聞也)孔子は葉公に対して「来遠(遠くの者を招くこと)」によって答え、哀公に対して「臨人(人に接する方法)」によって答え、景公に対して「節礼(節操。ここでは倹約・節約を意味します)」によって答えたが(『資治通鑑』胡三省注から解説します。葉公が政治について孔子に尋ねた時、孔子は「政治の要は近くの者を喜ばせて遠くの者を来させる(帰順させる)ことにある(政在悦近而来遠)」と答えました。しかし魯哀公が孔子に尋ねた時は「政治の要は賢人を選ぶことにある(政在選賢)」と答え、斉景公が孔子に尋ねた時は「政治の要は節財にある(政在節財)」と答えました)、(三人に対する回答が違うのは、孔子の政治に対する見解が)異なったからではなく、(三人の)急務とすることが異なっていたからである(非其不同,所急異務也)

俗人は文に拘って古を引用し(古の文献に拘泥して。原文「拘文牽古」)、権制に達することなく(権制というものを理解できず)、聞いたこと(古の文献に書かれたこと)を誇大に評価して実際に見たことを軽視している(奇偉所聞,簡忽所見)。どうして(彼等と)国家の大事を論じることができるだろうか。意見を言う者(言事者)はたとえ聖徳(『資治通鑑』では「聖聴」ですが、『後漢書崔駰列伝(巻五十二)』は「聖徳」としています。恐らく『資治通鑑』の誤りです)に符合していても、いつも掎奪(反対、排斥)を受けている。それは何故か(何者)?頑士(頑迷な士)は時権(時機)に暗く(闇於時権)、今まで見てきたことに慣れて(新しい方法による)成功を楽しむことを知らないからであり(安習所見不知楽成)、物事の開始を考慮する時に至っても、とりあえず「旧章を遵守しよう」と言うだけだからだ(況可慮始,苟云率由旧章而已)。達者(見識が豊富な人)でも、あるいは自分の名声を誇って能力がある人を嫉妬し(矜名妒能)、策(意見)が自分と異なることを恥じて、筆を振るって誇張した文章を書き(舞筆奮辞)、そうすることでその義(正しい意見)を破るので、少数意見が多数に勝つことはできず、最後は(聖徳に符合した正しい意見が)捨てられてしまうのである(寡不勝衆遂見擯棄)(このような状況なので)たとえ稷(后稷)や契が復存(復活)したとしても、やはり困難だろう。これが賢智の論が常に憤鬱して伸びない(発展しない)理由である。

天下を為す者(天下を治める者)が上徳(最上の高徳)ではない時は、厳しければ(天下が)治まるが、寛大だったら乱れるものである(厳之則治,寛之則乱)。どうしてそうだと明らかにできるのか(何以明其然也)?近くは孝宣皇帝が君人の道に明るく、為政の理に熟知していたので(審於為政之理)、厳刑峻法によって姦軌(姦悪な者)の膽を破り、海内が清粛(清平厳粛)として、天下が密如(安静)になった。(宣帝の)計画と効果は(算計見效)孝文(西漢文帝)よりも優れている。しかし元帝が即位するに及んで多くの寛政を行ったため、ついに墮損(失敗。損害)をもたらして威権が始めて奪われ、漢室基禍の主(漢室に禍を築く元)になってしまった。政道の得失はここから鑑みることができる。昔、孔子は『春秋』を作り、斉桓公を褒めて晋文公を称え(褒斉桓懿晋文)管仲の功に嘆息したが、文西周文王と武王)の道を美としなかったのだろうか(そうではない。孔子西周文王や武王の道も認めていたが、覇者である斉桓公、晋文公や法家の管仲も称賛したのだ)。誠に時勢に応じて弊害から救う道理に達していたのである(達権救敝之理也)。よって、聖人は世と共に推移できるが、俗士は変化を知ることを苦とし、結縄の約(原始の法律)が乱秦の緒(秦が残した混乱)を再び治め、干戚の舞(「干」は盾、「戚」は鉞です。「干戚の舞」は古代の武舞です)が平城の囲(平城は匈奴が高帝を包囲した地です)を解くに足りると思うのである。

熊経鳥伸(熊が木の枝に登る姿や鳥が足を伸ばす姿を真似る運動。『資治通鑑』胡三省注が解説していますが省略します)延暦(延命)の術だが、傷寒の理(傷寒のような熱病、重病を治す方法)ではない。呼吸吐納(呼吸法の一つ)は度紀(延命)の道ではあるが、続骨の膏(骨を繋げる薬)ではない。国を為す法(治める方法)は理身(修身。養生)に似ているところがあり、平時は養生を得て、病を患ったら攻めるものである(平時は養生に注意するだけだが、病になったら積極的に治さなければならない。原文「平則致養,疾則攻焉」)。刑罰というのは治乱の薬石(乱を治める薬)であり、徳教というのは興平の粱肉(太平を興すための美食、栄養)である。徳教によって残暴を除くのは、粱肉によって病の身を養うのと同じだ(粱肉では病を治せないように、徳教では混乱の世を安定させることができない。原文「夫以徳教除残,是以粱肉養疾也」)。刑罰によって太平の世を治めるのは、薬石によって体に栄養を与えるのと同じだ(病がないのに薬を飲んでも栄養にならない。同じように太平の世に刑罰を厳しくしても意味がない。原文「以刑罰治平,是以薬石供養也」)
ところが今は百王の敝(弊害)を継承して戹運の会(不運の時)に値するのに、数世以来、政令の多くが恩貸(寛大)な内容で(政多恩貸)、御者が轡を棄てて馬が銜(馬の口につける金具)を脱いでいるような状態である(馭委其轡,馬駘其銜)。四牡(四頭の牡馬)が横奔(横行。勝手に走ること)したら、皇路(国運)が傾いて危険になるので、馬を轡に繋いで車を制御することで救済するべきだ(原文「方将拑勒鞬輈以救之」。「拑勒」は銜を馬の口につけること、「鞬輈」は車轅を制御することです)。どうして馬につけた和鑾(鈴)を鳴らし、それに合わせて速度を調整している暇があるだろう(豈暇鳴和鑾調節奏哉)。昔、文帝は肉刑を除いたが、右趾(右脚)を斬るべき者は棄市に処し、笞で打たれた者は往往にして死に至った。文帝は厳によって平(泰平)をもたらしたのであり、寛によって平をもたらしたのではない。