東漢時代232 桓帝(十) 于窴の乱 152年
壬辰 152年
春正月、西域長史・王敬が于窴に殺されました。
以前、西域長史・趙評が于窴におり、癰(腫物)ができて死にました。
趙評の子が喪(霊柩)を迎えに行き、途中で拘彌国を通りました。
拘彌王・成国は于窴王・建とかねてから間隙があったため、趙評の子にこう言いました「于窴王が胡医に命じ、毒薬を持って傷に塗らせたので(持毒薬著創中)、死に至ったのだ。」
ちょうど王敬が代わりに西域長史になったので、馬達は王敬に命じて秘かに于窴の事件を調査させます。
王敬はまず拘彌国を訪ねました。
成国がまたこう言いました「于窴の国人は私を王にしたいと欲しています。今、この罪を理由に建を誅殺することができます。于窴は必ず服すでしょう。」
王敬は功名を貪るため、于窴国に入ると供具(宴席に使う器具や酒食)を設け、于窴王・建を招いて陰謀を図りました。
ある人が王敬の謀を于窴王・建に告げましたが、于窴王・建は信じず、「私に罪がないのに、王長史がなぜ私を殺そうと欲するのだ」と言いました。
翌日、于窴王・建が官属数十人を従えて王敬を訪ねました。席が定まってから于窴王・建が立ち上がって酒を勧めます(行酒)。
すると王敬が左右の者に叱咤して于窴王・建を捕えさせました。しかし吏士には于窴王・建を殺す気がありません。宴に参加した官属は全て包囲を破って逃走しました。
この時、拘彌王・成国の主簿・秦牧が王敬に従って宴会に参加していました。秦牧は刀を持って「大事が既に定まったのに、なぜまだ躊躇するのだ(何為復疑)!」と言い、前に進んで于窴王・建を斬りました。
事件を知った于窴の侯や将・輸僰等が兵を集めて王敬を攻撃しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、西域諸国はそれぞれ輔国侯と左右の将を置きました。
王敬は于窴王・建の頭を持って楼に登り、「天子がわしに建を誅殺させたのだ!」と宣言しました。
しかし輸僰は無視して楼を登り、王敬を斬って首を市に掲げました。
輸僰が自ら王に立ちましたが、国人は輸僰を殺して建の子・安国を立てました。
王敬の死を知った馬達は、于窴を討つために諸郡の兵を率いて塞から出撃しようとしました。
宋亮は于窴の民を開募(教導して人を募ること)し、彼等自ら輸僰を斬るように命じました。
宋亮は後に偽りを知りましたが、討伐する力がありませんでした。
庚午、常山王・劉豹が死にました。
秋七月庚辰(初二日)、日食がありました。
十一月、司空・黄瓊を罷免しました。
十二月、特進・趙戒を司空に任命しました。
右北平太守・和旻が貪汚の罪に坐し(坐臧)、獄に下されて死にました。
次回に続きます。