東漢時代233 桓帝(十一) 朱穆失脚 153年
癸巳 153年
春二月、張掖が「白鹿が現れた」と報告しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、鴻池は雒陽の東二十里に位置し、東西千歩、南北千百歩の広さがありました。
子がいなかったため、国が廃されました。
百姓が饑窮して路上で流散し、その数は数十万戸に上りました。冀州で最も被害が出ます。
弾劾された官吏の中には自殺に追い込まれた者もおり、またある者は獄中で死にました。
それを聞いた朱穆は郡に命じて調査させました(原文「下郡案験」。安平は王国なので、「郡」は誤りではないかと思われます)。官吏は朱穆の威厳を畏れていたため、墓を暴いて棺を割き、死体を取り出しました(陳尸出之)。
『資治通鑑』胡三省注によると、「左校」は官署名で、将作に属して左工徒を管理しました。
胡三省注は「趙忠の玉匣を僭(身分を越えた罪)とせず、朱穆が墓を暴いたことを罪とした。昏暗の君にどうして真の是非があるだろう(どうして是非の判断ができるだろう。原文「昏暗之君豈有真是非哉」)」と書いています。
太学の書生で潁川の人・劉陶等数千人が宮闕を訪ねて上書し、朱穆のために訴えました「伏して見るに、弛刑徒(首枷等の刑具を外された囚人)・朱穆は公事を処理して国を憂い(処公憂国)、拝州の日(州刺史を拝命した日)には姦悪を清める(除く)ことを志しました。誠に常侍(宮中の宦官)の貴寵によって、その父子・兄弟が州郡に散布し、競って虎狼となり、小民を噬食(噛んで呑みこむこと)しているので、朱穆は天綱(天の綱紀。国法)を張って正し(張理天綱)、漏目を補綴し(法の漏れを補い)、残禍(暴虐・禍患)を羅取(集めて取ること)し、そうすることで天意を塞ぎました(満足させました)。そのため、内官(中官。宦官)が皆共に恚疾(怨恨)し、誹謗が絶えることなく発生して(謗讟煩興)、讒言が頻繁に作られ(讒隙仍作)、ついに刑罰に至らせて(極其刑讁)、左校で輸作することになりました。天下の有識の者は皆、朱穆が禹・稷(后稷)と同じく勤(勤勉。勤労)でありながら、共(共工)・鯀の戾(刑罰。禍患)を被ったと思っています。もしも死者に知覚があるのなら(若死者有知)、唐帝(帝堯)が崇山で怒り、重華(帝舜)が蒼墓で忿懣するでしょう(『資治通鑑』胡三省注によると、この「崇山」は南裔(南方の辺境の地)を指します。帝堯が埋葬されました。「蒼墓」は蒼梧の帝舜の墓です)。
今は中官(宦官)・近習(近臣)が国の実権を盗み持ち(竊持国柄)、手に王爵を握って口に天憲を銜え(王法を口にし)、運賞(行賞)したら餓隸(飢えた奴隷)を季孫(季氏。魯の大臣。『資治通鑑』胡三省注によると、季氏は周公より富んでいたと言います)よりも富ませ、呼噏(呼吸。短い時間)によって伊(伊尹)・顔(顔回)を桀・跖(盗跖)と化しています(善人も些細な事ですぐ悪人にされてしまいます)。しかし朱穆だけは亢然として(頭をあげて。胸を張って)我が身が害されることを顧みませんでした。これは栄(栄盛)を嫌って辱(恥辱。屈辱)を好み、生を嫌って死を好んだからではなく(非悪栄而好辱,悪生而好死也)、ただ王綱の不攝(不調。不振)を感じ、天綱が久しく失われることを懼れたので、心を尽くして憂いを抱き(竭心懐憂)、上(陛下)のために深く計ったのです。臣は黥首繋趾(顔に刺青をして足を枷で繋ぐこと)して朱穆の代わりに輸作(労役)することを願います。」
上書を読んだ桓帝は朱穆を赦免しました。
冬十月、太尉・袁湯を罷免して太常・胡広を太尉に任命しました。
また、司徒・呉雄と司空・趙戒を罷免し、太僕・黄瓊を司徒に、光禄勳・房植を司空に任命しました。
この年、武陵太守・汝南の人・応奉が恩信によって招誘したため、叛蛮が全て投降・解散しました。
後部の侯・炭遮が余民を率いて阿羅多に背き、漢吏を訪ねて投降しました。
阿羅多は危急に陥り、百余騎を率いて北匈奴に逃亡しました。
後に阿羅多がまた匈奴から還り、卑君と国を争って多くの国人を収めました。
戊校尉・閻詳(『資治通鑑』では「厳詳」ですが、『後漢書・西域伝(巻八十八)』では「閻詳」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)は阿羅多が北虜(北匈奴)を招き入れて西域を混乱させることを憂慮したため、誠意を示して告示し、再び王に戻ることを許しました。
阿羅多は閻詳を訪ねて投降します。
『西域伝』によると、卑君は三百帳から得る税を収入にしました(食其税)。「帳」は中国の「戸数」と同じです。
次回に続きます。