東漢時代233 桓帝(十一) 朱穆失脚 153年

今回は東漢桓帝永興元年です。
 
東漢桓帝永興元年
癸巳 153
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
春二月、張掖が「白鹿が現れた」と報告しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
三月丁亥(十二日)桓帝が鴻池を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注によると、鴻池は雒陽の東二十里に位置し、東西千歩、南北千百歩の広さがありました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
夏五月丙申(『資治通鑑』は「四月丙申」としていますが、『後漢書桓帝紀』では「五月丙申」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、天下に大赦して元嘉三年から永興元年に改元しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
丁酉(上の記述と同じく、『資治通鑑』は「四月」に書いていますが、『後漢書桓帝紀』では「五月」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです、済南王劉広(悼王)が死にました。
子がいなかったため、国が廃されました。
 
劉広は済南釐王劉顕の子で、劉顕は簡王劉錯の子、劉錯は安王劉康の子です。劉康の父は光武帝です(順帝永建元年126年および順帝永建三年128年参照)
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月、三十二の郡国で蝗害が発生し、河水黄河が溢れました。
百姓が饑窮して路上で流散し、その数は数十万戸に上りました。冀州で最も被害が出ます。
 
桓帝は詔を発して各地で窮乏した者を救済させ、民を按撫して住居や家業を安定させました(在所賑給乏絶安慰居業)
 
また、桓帝は詔を発して侍御史朱穆を冀州刺史に任命しました。
冀部冀州各県の令長で、朱穆が黄河を渡ったと聞いて印綬を解いて去った者が四十余人もいました。
朱穆は冀州に至ると諸郡の貪汚の者を弾劾上奏しました。
弾劾された官吏の中には自殺に追い込まれた者もおり、またある者は獄中で死にました。
 
宦者趙忠の父が死んだため、趙忠が故郷の安平に還って父を埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、安平国は冀州に属します。
 
この時、趙忠は身分を越えて玉匣(死者に着せる玉の服。皇帝や王侯が使います)を作りました。
それを聞いた朱穆は郡に命じて調査させました(原文「下郡案験」。安平は王国なので、「郡」は誤りではないかと思われます)。官吏は朱穆の威厳を畏れていたため、墓を暴いて棺を割き、死体を取り出しました(陳尸出之)
 
この事を聞いた桓帝が激怒しました。朱穆を招いて廷尉を訪ねさせ、左校で輸作(労役)させます。
資治通鑑』胡三省注によると、「左校」は官署名で、将作に属して左工徒を管理しました。
胡三省注は「趙忠の玉匣を僭(身分を越えた罪)とせず、朱穆が墓を暴いたことを罪とした。昏暗の君にどうして真の是非があるだろう(どうして是非の判断ができるだろう。原文「昏暗之君豈有真是非哉」)」と書いています。
 
太学の書生で潁川の人劉陶等数千人が宮闕を訪ねて上書し、朱穆のために訴えました「伏して見るに、弛刑徒(首枷等の刑具を外された囚人)朱穆は公事を処理して国を憂い(処公憂国、拝州の日(州刺史を拝命した日)には姦悪を清める(除く)ことを志しました。誠に常侍(宮中の宦官)の貴寵によって、その父子兄弟が州郡に散布し、競って虎狼となり、小民を噬食(噛んで呑みこむこと)しているので、朱穆は天綱(天の綱紀。国法)を張って正し(張理天綱)、漏目を補綴し(法の漏れを補い)、残禍(暴虐禍患)を羅取(集めて取ること)し、そうすることで天意を塞ぎました(満足させました)。そのため、内官(中官。宦官)が皆共に恚疾(怨恨)し、誹謗が絶えることなく発生して(謗讟煩興)、讒言が頻繁に作られ(讒隙仍作)、ついに刑罰に至らせて(極其刑讁)、左校で輸作することになりました。天下の有識の者は皆、朱穆が禹(后稷)と同じく勤(勤勉。勤労)でありながら、共共工鯀の戾(刑罰。禍患)を被ったと思っています。もしも死者に知覚があるのなら(若死者有知)、唐帝(帝堯)が崇山で怒り、重華(帝舜)が蒼墓で忿懣するでしょう(『資治通鑑』胡三省注によると、この「崇山」は南裔(南方の辺境の地)を指します。帝堯が埋葬されました。「蒼墓」は蒼梧の帝舜の墓です)
今は中官(宦官)近習(近臣)が国の実権を盗み持ち(竊持国柄)、手に王爵を握って口に天憲を銜え王法を口にし)、運賞(行賞)したら餓隸(飢えた奴隷)を季孫(季氏。魯の大臣。『資治通鑑』胡三省注によると、季氏は周公より富んでいたと言います)よりも富ませ、呼噏(呼吸。短い時間)によって伊(伊尹)顔回を桀(盗跖)と化しています(善人も些細な事ですぐ悪人にされてしまいます)。しかし朱穆だけは亢然として(頭をあげて。胸を張って)我が身が害されることを顧みませんでした。これは栄(栄盛)を嫌って辱(恥辱。屈辱)を好み、生を嫌って死を好んだからではなく(非悪栄而好辱,悪生而好死也)、ただ王綱の不攝(不調。不振)を感じ、天綱が久しく失われることを懼れたので、心を尽くして憂いを抱き(竭心懐憂)、上(陛下)のために深く計ったのです。臣は黥首繋趾(顔に刺青をして足を枷で繋ぐこと)して朱穆の代わりに輸作(労役)することを願います。」
上書を読んだ桓帝は朱穆を赦免しました。
後漢書朱楽何列伝(巻四十三)』によると、朱穆はこの後、家で数年を過ごしてから、改めて朝廷に招かれて尚書になりました。
 
[] 『後漢書孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、太尉袁湯を罷免して太常胡広を太尉に任命しました。
また、司徒呉雄と司空趙戒を罷免し、太僕黄瓊を司徒に、光禄勳房植を司空に任命しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
十一月丁丑、桓帝が詔を発し、天下の死罪を一等減らして辺戍(辺境の守備)に遷しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』『後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』と『資治通鑑』からです。
桓帝元嘉元年(151年。二年前)の秋、武陵蛮詹山等四千余人が叛して県令を捕え、深山(山奥)に集結しました。
 
この年、武陵太守汝南の人応奉が恩信によって招誘したため、叛蛮が全て投降解散しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
車師後部王阿羅多と戊部候厳皓の関係がうまくいかなかったため、阿羅多が忿戾(忿懣怨恨)して叛し、屯田を包囲攻撃して吏士を殺傷しました。
資治通鑑』胡三省注によると、戊己両部の校尉にはそれぞれ部候がいました。和帝が車師後部に戊部候を置きました。
 
後部の侯炭遮が余民を率いて阿羅多に背き、漢吏を訪ねて投降しました。
資治通鑑』胡三省注によると、車師後国には撃胡侯がおり、漢が印綬を与えていました。
 
阿羅多は危急に陥り、百余騎を率いて北匈奴に逃亡しました。
 
敦煌太守宋亮が上書して後部の旧王軍就の質子(人質として送られた子)卑君を王に立てました。
車師後王軍就は安帝延光四年125に班勇に斬られました。『資治通鑑』胡三省注によると、軍就の質子は敦煌にいました。
 
後に阿羅多がまた匈奴から還り、卑君と国を争って多くの国人を収めました。
戊校尉閻詳(『資治通鑑』では「厳詳」ですが、『後漢書西域伝(巻八十八)』では「閻詳」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)は阿羅多が北虜北匈奴を招き入れて西域を混乱させることを憂慮したため、誠意を示して告示し、再び王に戻ることを許しました。
阿羅多は閻詳を訪ねて投降します。
東漢は改めて阿羅多を王に立ててから、卑君を敦煌に還らせて後部の人三百帳を与えました。
『西域伝』によると、卑君は三百帳から得る税を収入にしました(食其税)。「帳」は中国の「戸数」と同じです。
 
 
 
次回に続きます。