東漢時代234 桓帝(十二) 154年

今回は東漢桓帝永興二年です。
 
東漢桓帝永興二年
甲午 154
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲午(二十四日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月辛丑(初二日)、再び刺史と二千石が三年の喪を行うことを許しました。
 
西漢からの慣例で公卿二千石刺史は三年の喪に服せないことになっていました。
安帝元初三年116年)に一度許されましたが、安帝建光元年121年)からまた禁止されていました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸卯(初四日)、京師で地震がありました。
 
桓帝が詔を発し、公卿、校尉に賢良方正で直言・極諫できる者を各一人挙げさせました。
また、詔でこう言いました「最近、星辰が謬越(位置を違えること)して坤霊(大地の霊)が震動した。災異の降臨は、必ず理由なく発するものではない(災異之降必不空発)。自分の身を正して政治を修めることで、補われることを期待する(勑己修政庶望有補)。よって、輿服(車馬服飾)の制度(規格)で踰侈長飾(「踰侈」は過度な奢侈、「長飾」は過度な装飾です)なものは全て損省(削減)するべきである。郡県は務めて倹約を維持し(務存倹約)、旧令を申明(公開。明らかにすること)して永平(明帝時代)の故事と同じようにせよ。」
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、京師で蝗害がありました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
東海の山が崩れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
乙卯(『資治通鑑』は月を書いていません。『欽定四庫全書後漢記』では「乙卯」ではなく「六月乙丑」です。范瞱の『後漢書・孝桓帝紀』には記述がありません)桓帝が乳母馬恵の子馬初を列侯に封じました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
六月、彭城の泗水が水かさを増して逆流しました。
桓帝司隷校尉と部刺史に詔を発しました「蝗災が害を為し、水変が頻繁に発生し、五穀が不作で(五穀不登)、人()に蓄えがない(人無宿儲)。よって被災した郡国に蕪菁(かぶ)を植えさせて人食(民の食事)の助けとする。」
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月丁卯朔、日食がありました。
 
桓帝が詔を発しました「朝政が中(中庸)を失っているため、雲漢(高天)が旱を為し、川霊が水を湧かせ、蝗螽が孳蔓(繁殖蔓延)して我が百穀を害し(残我百穀)、太陽が光を損なって飢饉が至っている。害を被っていない郡県は飢餒(飢餓の者)のために蓄えを作るべきだ(当為飢餒者儲)。天下は一家であり、糜爛(頽廃)に向かわなければ国の宝となる(趣不糜爛則為国宝)。よって郡国に禁令して酒を売ってはならないことにし、祠祀は足りるだけにする(最低限にする。原文「祠祀裁足」)。」
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉胡広を罷免し、司徒黄瓊を太尉に任命しました。
閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏九月」としています)、光禄勳尹頌を司徒に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、尹頌の字は公孫といい、鞏の人です。鞏は河南に属します。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
天下の死罪一等を減らして辺戍(辺境の守備)に遷しました。
 
[十一] 『後漢書桓帝紀』からです。
蜀郡の李伯が宗室を詐称し、自立して「太初皇帝」を称しましたが、誅に伏しました。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月甲辰(初九日)桓帝が上林苑で校猟(狩猟の一種)を行い、函谷関に到りました。
資治通鑑』胡三省注によると、東漢は雒陽西に上林苑を開きました。函谷関は更に西に位置します。
 
桓帝が通った道の周りで九十歳以上の者にそれぞれ差をつけて銭を下賜しました。
 
[十三] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
泰山琅邪の賊公孫挙、東郭竇等が反し、長吏を殺しました。
 
 
 
次回に続きます。