東漢時代235 桓帝(十三) 張奐 155年
乙未 155年
州郡に勅令して貧民・弱者を賑給(救済)させました。
百姓や吏民から借りた分は現金に換算して支払い(以見銭雇直)、王侯から借りた分は新たに租税が入るのを待って返済することにしました(須新租乃償)。
太学生・劉陶が上書して政事について述べました「天と帝の関係、帝と民の関係というのは、頭と足の関係のようなものなので、互いに同調して動かなければなりません(相須而行也)。ところが陛下の目は鳴條の事(鳴條の戦い。商王・成湯が夏王・桀を滅ぼした戦い)を視ず、耳は檀車の声(兵車の音。「檀車」は兵車です)を聞かず、天災が(陛下の)肌膚を痛めることはなく、震食(地震や日食)が直接、聖体を損なうこともないので、(陛下は)三光(日月星)の謬(変異)を蔑み(軽視し)、上天の怒を軽んじています。
伏して高祖の起(興起)を念じるに、布衣(平民)から始まり、離散した人を集めて負傷した人を助け(合散扶傷)、帝業を克成(完成。勝ち取ること)し、その勤(勤労、勤勉)が極まりました(勤亦至矣)。(高祖が)福を伝えて祚(帝位)を継承させ(流福遺祚)、陛下に至ったのです。しかし陛下は烈考の軌(偉大な先祖(または父)の道、足跡)を増明できず、しかも高祖の勤を軽視しており、妄りに兵権を与えて国柄を授け(妄假利器,受授国柄)、醜い刑隷(宦官)の群れに小民(平民)を殺戮させ(使群醜刑隸芟刈小民)、虎豹の窟(巣)を麑場(子鹿を飼う場所。「麑」は子鹿です)に作らせ、豺狼に春囿(春の園囿)で子を生ませています(原文「虎豹窟於麑場,豺狼乳於春囿」。「虎豹」と「豺狼」は宦官や奸臣の比喩です)。そのため、貨殖の者(商人。裕福な者)は窮冤の魂(冤罪で窮した魂)となり、貧餒の者(貧困で飢えている者)は飢寒の鬼(霊)となり、死者が窀穸(長夜)に悲しみ、生者が朝野で憂愁しています(戚於朝野)。これが愚臣が長く嘆息する理由です(原文「是愚臣所為咨嗟長懐歎息者也」。「咨嗟」と「歎息(嘆息)」は同じ意味です)。
そもそも、秦が亡んだ時は、正しく諫めた者が誅され、諛を進めた者(阿諛追従した者)が賞され、嘉言が忠舌に結ばれ(忠臣の口から正しい言葉が出なくなり)、国命が讒口から出され、咸陽で閻楽に専断させ(原文「擅閻楽於咸陽」。閻楽は咸陽令になりました)、趙高に車府を授け(趙高を車府令に任命し)、権が自分(皇帝)から去っても知らず、威がその身から離れても顧みませんでした。古今とも道理は一つで(古今一揆)、成敗の情勢は同じです。陛下が遠くは強秦の傾を覧じ(強秦の滅亡を参考にし)、近くは哀・平の変を察し、得失を明らかにして禍福を見られること(得失昭然禍福可見)を願います。
臣はこうとも聞いています。危は仁がなければ助けられず、乱は智がなければ救えない(危非仁不扶,乱非智不救)。(臣が)窺い見るに、元冀州刺史・南陽の人・朱穆と前烏桓校尉で臣の同郡(潁川の人)・李膺は共に正道を歩んで清平であり(履正清平)、高尚な貞節が俗人を超越しているので(貞高絶俗)、実に中興の良佐(優れた輔佐)、国家の柱臣です。本朝に還らせて王室を夾輔(補佐)させるべきです(朱穆は二年前に罷免されて家に帰りました。李膺は『後漢書・党錮列伝(巻六十七)』によると護烏桓校尉になってから公事によって免官され、潁川の綸氏に住んでいました)。臣が諱言の朝(真実を語ることができない朝廷)において敢えて不時の義(時宜に合わない道理)を吐くのは、冰霜が日(太陽)を見るようなものなので、必ず消滅に至ります(臣の進言が採用されないことは理解しています)。臣は始めは天下の悲しむべきことを悲しみましたが、今は天下が臣の愚惑(愚昧)を悲しんでいます(臣始悲天下之可悲,今天下亦悲臣之愚惑也)。」
上書が提出されましたが、桓帝は取り合いませんでした。
夏四月、白い烏が斉国に現れました。
六月、洛水が溢れて鴻徳苑を破壊しました。
『孝桓帝紀』の注によると、川が溢れて津城門に至り、人や物を漂流させました。
司空・房植を罷免し、太常・韓縯を司空に任命しました。
突然、圧死・溺死した者は(及所唐突壓溺物故)、七歳以上を対象に一人当たり銭二千を下賜しました。
廬舍(家屋)が破壊されて穀食(食糧)を失い、特に貧困な者には一人当たり二斛の食糧を与えました。
巴郡と益州郡で山崩れがありました。
秋七月、初めて太山(泰山)と琅邪に都尉の官を置きました。
『孝桓帝紀』の注によると、秦代は各郡に尉が一人おり、軍事を担当しました。西漢景帝時代に都尉に改名されます。その後、東漢光武帝建武七年(31年)に省かれて、属国都尉や辺郡の都尉だけが置かれるようになりました。
本年、太山と琅邪の二郡は寇賊が絶えないため、都尉を置くことになりました。
しかし変事を聞いた張奐はすぐに兵を指揮して出陣しました。
敵わないと判断した軍吏が叩頭して止めましたが、張奐は聴かず、兵を進めて長城に駐屯しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、亀茲県は上郡に属し、上郡属国都尉の治所でした。亀茲国から投降した人がこの地に住んだため、亀茲が県名になりました。
東羌の諸豪は相次いで張奐と共に薁鞬等を撃ち、これを破りました。
恐れた伯徳は衆を率いて投降します。
こうして郡界が安寧になりました。
羌豪が張奐に馬二十頭と金鐻八枚を贈りました。
張奐は諸羌の前で酒を地に撒き(誓いを表します)、こう言いました「馬を羊のようにさせても(馬が羊の群れのように大量になっても)、厩舎に入れることはない(使馬如羊不以入厩)。金を粟のようにさせても(金が穀物のように大量になっても)、懐に入れることはない(使金如粟不以入懐)。」
張奐は馬も金(金鐻)も全て返却しました。
張奐以前の八都尉はほとんどが財貨を愛したため、羌人の患苦になっていました。
しかし張奐は身を正して自分を廉潔にしたため、悦服しない者はなく、威化(威信と教化)が大いに行き渡りました。
次回に続きます。