東漢時代236 桓帝(十四) 檀石槐 156年

今回は東漢桓帝永寿二年です。
 
東漢桓帝永寿二年
丙申 156
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
春正月、中官(『孝桓帝紀』の注によると、常侍以下の宦官を指します)が三年の喪に服すことを許可しました。
桓帝永興二年154年)には刺史や二千石の官員が三年の喪を行うことを許可していました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
二月甲申、東海王劉臻が死にました。
 
劉臻の諡号は孝王です。頃王劉粛の子で、祖父は靖王劉政、曾祖父は恭王劉彊です。劉彊はかつて光武帝の太子でした。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉臻の死後、子の懿王劉祗が継ぎました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、蜀郡属国の夷人が反しました。
 
資治通鑑』胡三省注は「(安帝)延光元年122年)、蜀郡西部都尉を属国都尉にした」と解説していますが、恐らく翌年(延光二年)の誤りです(安帝延光二年123年参照)
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前、鮮卑の檀石槐が勇健で智略もあったため、部落の人々に畏服されました。そこで檀石槐が法禁を発布して曲直(是非。正否)を公平にしました(政治を正した、または訴訟を処理したという意味だと思います。原文「平曲直」)。その結果、法令を犯す者がいなくなり、檀石槐が大人に推されました。
 
檀石槐は弾汙山(または「弾汗山」)、歠仇水の辺に庭(朝廷。王庭)を立てました。高柳の北三百余里の地に位置します。
この後、鮮卑の兵馬が盛んになり、東西部の大人が皆帰順するようになります。
そこで檀石槐は、南は漢の縁辺を侵し、北は丁零と対抗し、東は夫餘を退け、西は烏孫を撃ち、匈奴の故地を全て占拠しました。領土が東西一万四千余里に及びます。
 
秋七月、檀石槐が雲中を侵しました。
 
朝廷は元烏桓校尉李膺を度遼将軍に任命しました。
李膺が辺境に至ると、羌胡は皆、敬慕畏服し(望風畏服)、それまでに奪った男女を全て塞下に送って還しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は「延熹二年159年)六月、鮮卑が遼東を侵したが、度遼将軍李膺がこれを撃破した」と書いています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(『孝桓帝紀』『党錮列伝(巻六十七)』『烏桓鮮卑列伝(巻九十)』)』に従って「永寿二年(本年)七月」に書いています。
います。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
太山賊公孫挙、東郭竇等が衆を集めて三万人に達し、青徐三州を侵して郡県を破壊しました。
朝廷が連年討伐しても勝てません。
尚書が困難な政務を処理する能力がある者(能治劇者)を選んで司徒掾潁川の人韓韶を嬴長に任命しました。『資治通鑑』胡三省注によると、嬴県は泰山郡に属します。
 
賊は韓韶の賢を聞き、互いに戒めて嬴の県境には入らないようにしました。
 
他県の流民一万余戸が嬴の県界に入ったため、韓韶は倉を開いて救済しました。
倉庫の官吏がこれに反対しましたが、韓韶はこう言いました「溝壑の人(山谷に落ちた人。瀕死の人)を長く活きさせたのに、そのために罪に伏すなら、笑みを含んで(笑って)地に入ろう(長活溝壑之人而以此伏罪,含笑入地矣)。」
太守はかねてから韓韶の名徳を知っていたため、勝手に倉を開いた罪を問いませんでした。
 
韓韶と同郡(潁川)の荀淑、鍾皓、陳寔も皆、県長になったことがあり、着任した地で徳政によって称えられたため、当時の人々から「潁川四長」と称されました。
資治通鑑』胡三省注によると、荀淑は当塗長、韓韶は嬴長、陳寔は太丘長、鍾皓は林慮長を勤めました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前、鮮卑が遼東を侵した時、属国都尉段熲が管轄の兵を率いて駆けつけました。
しかし段熲は途中で賊が驚いて去ることを心配しました。そこで駅騎(早馬)に偽の璽書を持たせ、段熲を(京師に)招かせました。
段熲は途中で偽りの退却を始め、秘かに帰路に兵を埋伏させました。
鮮卑は段熲の退却を信じて入境し、段熲を追いました。そこに段熲が大いに兵を放ちます。鮮卑はことごとく斬獲されました。
 
段熲は璽書を偽った罪に坐し、重刑に伏すはずでしたが、功績があったため司寇(二年の徒刑)に処され、刑期が満たされてから議郎になりました。
 
本年、東方の盗賊が旺盛だったため、桓帝が詔を発して公卿に文武の能力がある将帥を選ばせました。
司徒尹頌が段熲を推挙したため、桓帝は段熲を中郎将に任命しました。
 
段熲は公孫挙、東郭竇等を撃って大破し、二人を斬って首一万余級を獲ました。余党は降散(投降離散)します。
 
桓帝は段熲を列侯に封じました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
冬十一月、太官右監丞の官を置きました。
『孝桓帝紀』の注によると、太官右監丞の秩は比六百石です。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月、京師で地震がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
梁不疑の子梁馬を潁陰侯に、梁胤(梁冀の子)の子梁桃を城父侯に封じました。
 
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は梁馬と梁桃の封侯を建和元年147年)の事としています。建和元年は梁冀に益封(加封)して、梁冀の弟梁不疑を潁陽侯に、梁蒙を西平侯に、梁冀の子梁胤を襄邑侯に封じた年です。また、「梁馬」は「梁焉」、「梁桃」は「梁祧」と書かれています。
范瞱の『後漢書梁統列伝(巻三十四)』は「永興二年(154)、梁不疑の子梁馬を潁陰侯に、梁胤の子梁桃を城父侯に封じた」としています。
資治通鑑』は本年(永寿二年)に書いていますが、『梁統列伝』の「永興二年」を「永寿二年」と間違えたのではないかと思われます。
 
 
 
次回に続きます。