東漢時代236 桓帝(十四) 檀石槐 156年
丙申 156年
二月甲申、東海王・劉臻が死にました。
春三月、蜀郡属国の夷人が反しました。
以前、鮮卑の檀石槐が勇健で智略もあったため、部落の人々に畏服されました。そこで檀石槐が法禁を発布して曲直(是非。正否)を公平にしました(政治を正した、または訴訟を処理したという意味だと思います。原文「平曲直」)。その結果、法令を犯す者がいなくなり、檀石槐が大人に推されました。
檀石槐は弾汙山(または「弾汗山」)、歠仇水の辺に庭(朝廷。王庭)を立てました。高柳の北三百余里の地に位置します。
秋七月、檀石槐が雲中を侵しました。
『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は「延熹二年(159年)六月、鮮卑が遼東を侵したが、度遼将軍・李膺がこれを撃破した」と書いています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(『孝桓帝紀』『党錮列伝(巻六十七)』『烏桓鮮卑列伝(巻九十)』)』に従って「永寿二年(本年)七月」に書いています。
います。
太山賊・公孫挙、東郭竇等が衆を集めて三万人に達し、青・兗・徐三州を侵して郡県を破壊しました。
朝廷が連年討伐しても勝てません。
賊は韓韶の賢を聞き、互いに戒めて嬴の県境には入らないようにしました。
他県の流民一万余戸が嬴の県界に入ったため、韓韶は倉を開いて救済しました。
倉庫の官吏がこれに反対しましたが、韓韶はこう言いました「溝壑の人(山谷に落ちた人。瀕死の人)を長く活きさせたのに、そのために罪に伏すなら、笑みを含んで(笑って)地に入ろう(長活溝壑之人而以此伏罪,含笑入地矣)。」
太守はかねてから韓韶の名徳を知っていたため、勝手に倉を開いた罪を問いませんでした。
韓韶と同郡(潁川)の荀淑、鍾皓、陳寔も皆、県長になったことがあり、着任した地で徳政によって称えられたため、当時の人々から「潁川四長」と称されました。
『資治通鑑』胡三省注によると、荀淑は当塗長、韓韶は嬴長、陳寔は太丘長、鍾皓は林慮長を勤めました。
しかし段熲は途中で賊が驚いて去ることを心配しました。そこで駅騎(早馬)に偽の璽書を持たせ、段熲を(京師に)招かせました。
段熲は途中で偽りの退却を始め、秘かに帰路に兵を埋伏させました。
段熲は璽書を偽った罪に坐し、重刑に伏すはずでしたが、功績があったため司寇(二年の徒刑)に処され、刑期が満たされてから議郎になりました。
本年、東方の盗賊が旺盛だったため、桓帝が詔を発して公卿に文武の能力がある将帥を選ばせました。
段熲は公孫挙、東郭竇等を撃って大破し、二人を斬って首一万余級を獲ました。余党は降散(投降離散)します。
桓帝は段熲を列侯に封じました。
冬十一月、太官右監丞の官を置きました。
『孝桓帝紀』の注によると、太官右監丞の秩は比六百石です。
冬十二月、京師で地震がありました。
梁不疑の子・梁馬を潁陰侯に、梁胤(梁冀の子)の子・梁桃を城父侯に封じました。
『欽定四庫全書・後漢記(袁宏)』は梁馬と梁桃の封侯を建和元年(147年)の事としています。建和元年は梁冀に益封(加封)して、梁冀の弟・梁不疑を潁陽侯に、梁蒙を西平侯に、梁冀の子・梁胤を襄邑侯に封じた年です。また、「梁馬」は「梁焉」、「梁桃」は「梁祧」と書かれています。
次回に続きます。