東漢時代237 桓帝(十五) 貨幣 157年

今回は東漢桓帝永寿三年です。
 
東漢桓帝永寿三年
丁酉 157
 
[] 『後漢書桓帝』と『資治通鑑』からです。
春正月己未(中華書局『白話資治通鑑』は「己未」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
居風令(県令)が貪暴で度がなかったため、県の人朱達等が蛮夷と共に叛し、県令を攻めて殺しました。
朱達等は四五千人の衆を集めます。
資治通鑑』胡三省注によると、居風は九真郡に属す県です。県内の山に風門があり、常に風が吹いていました。
 
夏四月、朱達等が九真に進攻しました。九真太守兒式が討伐しましたが戦死します。
 
桓帝は詔を発して九真都尉魏朗に討伐させ、朱達等を破りました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
再び日南に屯拠(兵を駐屯させて守ること)しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月庚辰晦(中華書局『白話資治通鑑』は「閏五月」としています。「庚辰晦」は恐らく誤りです)、日食がありました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
六月、初めて小黄門(皇帝に侍る宦官)を守宮令にし、冗従右僕射の官を置きました。
『孝桓帝紀』の注によると、守宮令と黄門冗従僕射はそれぞれ一人で、どちらも秩六百石です。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
京師で蝗害がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
ある人が上書しました「民の貧困は貨幣が軽くて薄すぎることが原因です(貨軽銭薄)。大銭に改鋳するべきです。」
この件は四府(大将軍府と三公府)に下され、群僚や太学の能言の士(独特な見解があり、弁論の能力がある士)が討議に参加しました。
 
太学劉陶が意見を提出しました「当今の憂いは貨(貨幣)にあるのではなく、民の飢えにあります。窺い見るに、近年以来、良苗が蝗螟(害虫)の口において尽き、杼軸(機織の機械。ここでは布を指します)が公私の求めによって空になっています。民が患いとしているものが、銭貨(貨幣)の厚薄、銖両(一銖一両。貨幣の単位)の軽重だというのでしょうか。たとえ今、沙礫を南金(南方が産出する銅)と化し、瓦石を和玉(卞和の玉。宝玉)に変えたとしても、百姓に対しては渇いても飲む物がなく、飢えても食す物がない状況にさせます。これではたとえ皇天皇氏と伏羲氏)の純徳と唐(堯・舜)の文明(文徳英明)があったとしても、蕭牆(宮室の入り口の低い壁。臣下が君主に謁見する時に設けられる垣)の内を保つことはできません。民とは百年にわたって貨(貨幣)がないことは許されますが、一朝において飢えがあることは許されないものなので(蓋民可百年無貨不可一朝有飢)、食が至急(最も緊迫した問題)になるのです。しかし議者は農殖の本(農業生産が国の根本であるという道理)に達していないので、多くが鋳冶の便(貨幣鋳造の便宜)を語っています。恐らく万人が鋳して(貨幣を鋳造して)一人がそれを奪ったとしても、まだ供給できないのに、今は一人が鋳して万人が奪っているのです(なおさら足りません)。たとえ陰陽を炭とし、万物を銅とし、不食の民(食事を必要としない民)を労役させ、不飢の士(飢えることがない士卒)を使役したとしても、まだ無厭の求(際限がない要求)を満足させることはできません。
民を充足させて財を豊かにすること(民殷財阜)を欲するのなら、要は労役を止めて搾取を禁じることにあります(要在止役禁奪)。そうすれば百姓が労することなく充足できます。陛下は海内の憂戚(憂愁)を憐憫し、鋳銭斉貨(貨幣を鋳造して資財を集めること)によってその弊(弊害)から救うことを欲していますが、これは魚を沸鼎(沸騰した鼎)の中で養い、鳥を烈火の上に棲ませるようなものです。水木は本来、魚鳥が生まれる場所ですが、用いる時を間違えたら(用之不時)、必ず焦爛を招きます。
陛下が鍥薄(酷薄)の禁を寛大にし、冶鋳(貨幣鋳造)の議を後にし、民庶の謠吟(歌謡)を聴き、路叟(路傍の老人。民衆)が憂いとすることを問い、三光の交耀(日月星の輝き)を観察し(瞰三光之交耀)、山河の分流(「山分」と「河流」。「山分」は山崩れ、「河流」は洪水や河が枯渇することです)を視ることを願います。そうすれば、天下の心も国家の大事も全て粲然(明らかな様子)と見ることができ、遺惑(遺漏と疑惑)となるものが無くなります。
伏して念じるに、当今は地が広いのに耕作されておらず(地広而不得耕)、民が多いのに食す物がなく(民衆而無所食)、群小が競って進んで(多数の小人が昇進を競って)国の位(高位)を掌握しており、天下に鷹揚(鷹が空を飛ぶように堂々としていること。武威を示すこと)して鳥が飽食を求めるように財貨を奪い(鳥鈔求飽)、皮膚や骨を全て呑み込んでもまだ満足しません(吞肌及骨並噬無厭)。誠に役夫、窮匠(『資治通鑑』胡三省注は「役夫は陳渉、黥布等、窮匠は山陽の鉄官徒蘇令西漢成帝永始三年14年)等」と解説しています)が突然、版築の間(「版築」は土の壁ですが、ここでは城壁建設等の労役を指します)に起ち、斧を投げて袖をまくり(投斤攘臂)、高くに登って遠くに叫び(登高遠呼)、愁怨の民を饗応雲合させることを恐れます。そうなったらたとえ方尺の銭(一尺四方の大銭)があったとしても、どうしてその危(天下の危機)から救うことができるでしょう。」
貨幣を改めて鋳造するという意見は却下されました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
秋七月、河東の地が裂けました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月、司徒尹頌が死にました。
袁宏の『後漢紀』は尹頌の死を六月に書いていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(孝桓帝紀)』に従って「冬十一月」に書いています(胡三省注参照)
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
長沙蛮が叛して益陽を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、益陽県は長沙郡に属し、益水の陽()にありました。
 
[十一] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空韓縯を司徒に、太常北海の人孫朗を司空に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、孫朗の字は代平です。
 
 
 
次回に続きます。