東漢時代 陳亀の上書

桓帝延熹元年158年)十二月、南匈奴の諸部がそろって叛し、烏桓鮮卑と共に縁辺の九郡を侵したため、朝廷は京兆尹陳亀を度遼将軍に任命しました。

東漢時代238 桓帝(十六) 南匈奴の乱 158年


陳亀は着任する前に上書しました。以下、『資治通鑑』から上書の内容を紹介します。
「臣が聞くに、三辰(日月星)が軌道から外れたら士を抜擢して相(宰相)に任命し(三辰不軌擢士為相)、蛮夷が恭順ではなくなったら卒を抜擢して将に任命するといいます(蛮夷不恭抜卒為将)。臣は文武の材(才)がないのに、鷹揚(武威。将軍)の任を辱めることになりました(将軍の任務を負うことになりました。謙遜の言葉です。原文「忝鷹揚之任」)。たとえこの躯体(身体)を没したとしても、補(益)となることはありません(この身を犠牲にしても国に報いることはできません。原文「雖歿躯体無所云補」
今、西州の辺鄙(辺境)は土地が塉埆(土地が痩せて石が多いこと)で、民はしばしば寇虜を経験しており(民数更寇虜)、室家が残破して、たとえ正気を含んでいても(まだ生きていても)、実際は枯朽しているのと同じです(雖含生気実同枯朽)。往年には并州で水雨と災螟が交互に発生し、稼穡(農作物)が荒耗(荒廃)して租更(田租と更賦。更賦は兵役の代わりに納める税です)が空闕(欠乏)しました。陛下は百姓を我が子とみなしています。どうして撫循の恩を垂らさずにいられるでしょう。古公(古公亶父)と西伯(姫昌)の時代は天下がその仁に帰しました。どうしてまた(彼等が)車で金銀財宝を運ぶことで(輿金輦宝)民の恵にする必要があったでしょうか(古公や西伯は仁徳によって民を帰心させたので、金銀財宝によって民に恵みを与える必要はありませんでした)。陛下は中興の統を継ぎ、光武の業を承り(継承し)、臨朝聴政(朝廷に臨んで政治を行うこと)していますが、まだ聖意を留めていません(陛下は民に対して関心を抱いていません。陛下の意旨・恩徳が民に届いていません)。しかも牧守(州刺史と郡太守)が不良(善行がないこと)で、ある者は中官から出ており(宦官の推挙によって官を得ており)、上旨(皇帝の意図)に逆らうことを恐れて目先を過ごすことだけを求めているため(取過目前)、呼嗟の声(民衆の叫び声や哀嘆)が災害を招致しており、凶悍(強暴獰猛)な胡虜が(漢の)衰弱を利用して隙に乗じています(因衰縁隙)。その結果、倉庫(の物資)は全て豺狼の口によって尽きさせており、功業(勲功・業績)に対しては銖両の效(わずかな褒賞)もありません。これは皆、将帥が不忠で姦を集めていること(悪行が多いこと。または不正を行う官吏が多いこと)が原因です(皆由将帥不忠聚姦所致)

以前、涼州刺史祝良が任命されて州に至ったばかりの時、糾罰(糾弾処罰)することが多く、太守令長の半数近くが貶黜(罷免排斥)されたため、その政治は時を越えずに(長い時間をかけずに。原文「政未踰時」)功效(功績。効果)を卓然(卓越、突出すること)とさせました。実に異能を賞して功能(功績能力)を勧め(奨励し)、牧守を改任して姦残(姦悪暴虐)を去斥(排斥)するべきです。また、匈奴烏桓護羌の中郎将校尉(護匈奴中郎将、護烏桓校尉、護羌校尉)を改めて選び、文武(の才)を簡練(選んで鍛えること)して法令を授けるべきです。

更に并涼二州の今年の租更(田租と更賦)を除き、罪隸(罪を犯して奴隷に落とされた者)を寛赦(赦免)して、掃除更始するべきです(過去を清算して始めからやり直すべきです)。そうすれば善吏が奉公の祐(福)を知り、悪者が営私(私利を図ること)の禍を覚え、胡馬が長城を窺えず、塞下に候望(見張り。偵察)の患が無くなります。」