東漢時代240 桓帝(十八) 梁氏誅滅 159年(2)

今回は東漢桓帝延熹二年の続きです。
 
[(続き)] 梁冀が政権を握って二十年近く経ちました。
資治通鑑』胡三省注は「順帝永和六年141年)に梁冀が大将軍になってこの年で十九年(足掛け)」と解説しています。
 
梁冀の威権が内外に行われているため、天子は拱手(手出しができない様子)するだけで自ら政事に関わることができず、不平を抱いていました。
前年、陳授が殺されてから、桓帝の怒りはますます増大しています。
 
和熹皇后(和帝の皇后鄧氏)の従兄の子に当たる郎中鄧香(鄧禹の曾孫)は宣という妻を娶り、猛という娘ができました(『後漢書皇后紀下』は名を「猛女」としています。『後漢書梁統列伝(巻三十四)』では「猛」です。『資治通鑑』は『梁統列伝』に従っています)。鄧香の死後、妻宣は改めて梁紀という者に嫁ぎました。梁紀は孫寿(梁冀の妻)の舅(母の兄弟)に当たります。
鄧猛には色美(美色)があったため、孫寿が掖庭後宮に入れました。鄧猛は桓帝の貴人になります。
梁冀は鄧猛を自分の娘にしたいと思い、姓を梁に変えさせようとしました。しかし鄧猛の姉壻である議郎邴尊が鄧猛の意志を妨害することを恐れたため(原文は「冀恐猛姊壻議郎邴尊沮敗宣意」で、「邴尊が宣の意志を妨害することを恐れた」ですが、「宣意(宣の改姓の意志)」ではなく「猛意(猛の改姓の意志)」ではないかと思われます。あるいは、「母宣が鄧猛に改姓させることを邴尊が妨害するのではないかと恐れた」という意味かもしれません)、客を送って邴尊を刺殺しました。
 
梁冀は更に宣も殺そうとしました。
宣の家は中常侍袁赦の家の隣だったため、梁冀の客が袁赦の家の屋根に登って宣の家に入ろうとします。ところが袁赦がそれを発見しました。袁赦は太鼓を鳴らして人を集め、宣に危険を告げます。
宣は走って入宮し、桓帝に報告しました。
 
宣の話を聞いた桓帝は激怒しました。
そこで桓帝は厠に入った機会に単独で小黄門史唐衡(『資治通鑑』胡三省注によると、「小黄門史」は小黄門の掌書の者(符節や文書を管理する者)です)を呼び、こう問いました「左右の者(宦官)で外舍外戚と関係が良くないのは誰だ(不相得者誰乎)?」
唐衡が答えました「中常侍単超、小黄門史と梁不疑の間には隙(対立)があります。また、中常侍徐璜、黄門令具瑗(具が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、『左伝』に具丙の名があります。黄門令ではなく、中常侍かもしれません。下述します)はいつも外舍の放横(放縦横暴)に対して秘かに忿疾(憤懣憎悪)しており、口に出せないだけです(口不敢道)。」
桓帝は単超と左を招いて入室させ、こう言いました「梁将軍兄弟が専朝し(朝政を専断し)、内外を迫脅(脅迫)しているため、公卿以下がその風旨(意思)に従っている。今、これを誅したいと欲するが、常侍の意は如何だ?」
単超等が答えました「(梁氏は)誠に国の姦賊であり、誅すべき日が久しくなりますが(早くから誅殺すべきでしたが。原文「当誅日久」)、臣等は弱劣です。聖意がどのようであるかがまだ分からないだけです(未知聖意如何耳)。」
桓帝が言いました「その通りであるなら、常侍は秘かにこれを図れ(審然者,常侍密図之)。」
単超等が言いました「図るのは難しくありません。陛下が腹中で狐疑(躊躇)するのを恐れるだけです。」
桓帝が言いました「姦臣が国を脅かしており、その罪に伏すべきである。なぜ躊躇するのだ(何疑乎)。」
桓帝は徐璜と具瑗も招いて五人で計を定めました。桓帝が単超の臂(腕)を噛み、その血で盟を結びます。
単超等が言いました「今、計が既に決したので、陛下は二度とこの事を話さないでください(勿復更言)。人に疑われることを恐れます。」
 
一方、梁冀は心中で単超等を疑いました。
八月丁丑(初十日)、梁冀が中黄門張惲を禁中に入れて宿直させ(入省宿)、変事を防ぎました。
資治通鑑』胡三省注は「上旨(皇帝の指示)がないのに張惲を直接入宮させたが、梁冀の威が宮省(宮中の官署)に行き届いていたからこのようにできた」と解説しています。
 
しかし具瑗が官吏に命じて張惲を逮捕させました。「勝手に外から入宮し、不軌(謀反)を図ろうと欲した」という理由です。
後漢書桓帝紀』は「大将軍梁冀が乱を為すことを謀った(謀為乱)」と書いています。梁冀が勝手に張惲を禁中に入れたことを指すようです。
 
桓帝が前殿に登って詔を発しました。
尚書を招いてから張惲の件を公開し、尚書尹勳に符節を持って丞郎以下の官員(『資治通鑑』胡三省注によると、丞郎は尚書の左右丞と尚書郎です)を指揮させます。官員はそれぞれ武器を持って省閤を守り、諸符節を集めて省中(宮中)に届けました(全ての符節を桓帝自ら管理しました)
また、具瑗に左右厩騶(『資治通鑑』胡三省注によると、「騶」は騎士です。かつて太僕には六厩がありましたが、東漢中興後に削減して未央厩だけを置きました。乗輿(皇帝の車馬)や厩中の諸馬を管理します。後に左駿令厩が置かれ、単独で乗輿御馬(皇帝の車馬)を管理することになりました。「左右厩」は「左駿厩」と「未央厩」を指すようです。未央厩の卒騶は二十人なので、左駿厩もほぼ同数だと思われます。)、虎賁羽林都候の剣戟士(『資治通鑑』胡三省注によると、左右都候は各一人おり、秩は六百石です。剣戟の士を管理し、宮中を巡視して天子が逮捕を命じた者を捕らえました。衛尉に属します)合計千余人を指揮させ、司隸校尉張彪と共に梁冀の邸宅を包囲させました。同時に光禄勳袁盱を派遣し、符節を持って梁冀から大将軍の印綬を回収させ、比景都郷侯に改封します(これ以前の梁冀の食邑は襄邑、成陽、定陶、乗氏の四県です)
梁冀と妻の孫寿は即日自殺しました。
 
梁不疑と梁蒙(二人とも梁冀の弟です)はこれ以前に死んでいました。
桓帝は梁氏、孫氏の中外(朝廷と地方)の宗親を全て逮捕して詔獄(皇帝が管理する獄)に送り、長幼に関係なく皆、棄市に処しました。その他にも関連した公卿、列校、刺史、二千石の死者が数十人に上ります。
資治通鑑』は具体的な人名を省略していますが、『孝桓帝紀』は「衛尉梁淑、河南尹梁胤(梁冀の子)、屯騎校尉梁譲、越騎校尉梁忠、長水校尉梁戟等および中外の宗親数十人が皆誅に伏した」と書いています。。
後漢書梁統列伝(巻三十四)』によると、梁譲は梁冀の叔父、梁淑、梁忠、梁戟は梁冀の親従(親族)です。
 
太尉胡広、司徒韓縯、司空孫朗は梁冀に阿附して皇宮を守らず、長寿亭に留まったという罪(恐らく政変の際、門外の長寿亭で様子を窺ったのだと思われます)に坐し、死一等は減らされたものの、免官のうえ庶人にされました。
 
資治通鑑』にはありませんが、『後漢書桓帝』は「太尉胡広は罪に坐して罷免され、司徒韓縯と司空孫朗は獄に下された」と書いています。韓縯と孫朗は逮捕投獄されたようです。
また、『孝桓帝紀』の注によると、三人は爵位を使って贖罪し、死一等を免じられました(減死一等以爵贖之)
 
(梁冀の)故吏や賓客で免黜(罷免排斥)された者は三百余人もおり、朝廷が空になりました。
 
当時、宮中から突然政変が発動されたため、使者が慌てて行き交い(交馳)、公卿が度(常態)を失い、官府も市里も鼎沸(鼎が沸騰すること。混乱、喧噪の様子)して、数日後にやっと安定しました。
百姓で慶祝しない者はいません。
梁冀の財貨を没収して県官に売り出させたところ、合計三十余万万(億)に上りました。それによって王府(国庫)の費用が充たされたため、桓帝は天下の税租の半分を減らしました。
また梁冀の苑囿を分けて、窮民に業(本業。農業)を行わせました(散其苑囿以業窮民)
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬午(十五日)桓帝が梁貴人(鄧猛。梁氏に改められました)を皇后に立てました。
懿陵(梁冀の妹懿献皇后の陵)を廃して貴人冢(墓)にしました。
 
桓帝は梁氏を憎んだため、皇后の姓を薄氏に改めました。西漢文帝の母太后の氏です。
久しくして皇后が鄧香の娘だと知ったため、鄧氏に戻しました。
 
 
 
次回に続きます。