東漢時代242 桓帝(二十) 処士 159年(4)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
尚書陳蕃が上書して五処士を推挙しました。豫章の人徐穉、彭城の人姜肱(『資治通鑑』胡三省注によると、姜氏は炎帝から出ましたが、姜水に住んだため姜を氏にしました)、汝南の人袁閎、京兆の人韋著、潁川の人李曇です。
桓帝はそれぞれに対して安車と玄纁(黒と紅の布帛)を準備し、礼を備えて招きましたが、五人とも応じませんでした。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、范瞱の『後漢書徐穉伝(周黄徐姜申屠列伝・巻五十三)』では延熹二年(本年)尚書陳蕃、僕射胡広等が徐穉等を推薦しています。
しかし袁宏の『後漢紀』は延熹五年162年)尚書陳蕃が五処士を推薦しています。
延熹二年は胡広が既に太尉になっており、延熹五年は陳蕃が既に光禄勳になっているので、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従って「延熹二年」に書いていますが、袁宏の『後漢紀』に従って「僕射胡広」の名を除いています。
 
徐穉は家が貧しかったため、常に自ら耕作していました。自分の労力によって得た物でなければ食べず(非其力不食、恭倹で義によって謙譲できたため、当地の人々がその徳に服します。
徐穉はしばしば公府に招聘されましたが、起ちあがりませんでした。
陳蕃が豫章太守になった時、徐穉を功曹にするために礼を用いて招きました(以礼請署功曹)。徐穉は辞退しませんでしたが、陳蕃を謁見しただけで退きました(去りました)。陳蕃は性格が方峻(方正峻厳)で、通常は賓客を接待しませんでしたが、徐穉が来た時だけは特別に一榻を設け、徐穉が去ったらすぐにかたずけて壁に掛けました(原文「特設一榻去則県之」。「榻」は長椅子です。「県」は「懸」「掛ける」に通じます)
後に朝廷が「有道の士」を挙げた時、徐穉は自分の家で太原太守に任命されましたが、やはり着任しませんでした。
徐穉は諸公の招聘に応じませんでしたが、彼等の死喪(死亡。訃報)を聞くと常に笈(竹や藤で作った箱。書物や衣服、薬物等を入れます)を背負って弔問に赴きました。いつも家であらかじめ一羽の鶏を炙り、一両の綿絮(綿)を酒の中につけてから乾かして、炙った鶏を包みます。冢隧(墓道)の外まで至ると綿を水に浸して酒気をもたせ、一斗の米飯を準備し、白茅を藉(蓆。敷物)にし、鶏を墓前に置き、酒を地に撒いてから(醊酒畢)、謁(名刺)を残して去り、喪主には会いませんでした。
 
姜肱と二人の弟である姜仲海、姜季江は共に孝友(父母に対して孝行、兄弟に対して友愛)として名が知られていました。常に同じ布団で寝て、官府の招聘に応じたことはありません。
姜肱はかねて姜季江と共に郡府を訪ねた時、夜間に道中で強盗に遭いました(為盗所劫)。盗賊が姜肱等を殺そうとすると、姜肱はこう言いました「弟は年幼で父母の憐(愛)を受けており、しかもまだ聘娶(結婚)していません。この身を殺して弟を救うことを願います(願殺身済弟)。」
姜季江が言いました「兄は年も徳も(私の)前にあり、家の珍宝、国の英俊なので、私が自ら戮(殺戮)を受けて兄の命の代わりとなることを乞います。」
盗賊は二人とも放し、衣服や財物を奪っただけでした。
二人が郡府に入った時、人々は姜肱に衣服が無いのを見て不思議がり、理由を問いました。しかし姜肱は別の口実を探して最後まで盗賊の事を話しませんでした。
それを聞いた盗賊は慚愧と後悔の心を抱き、精廬(精舍。学舎)を訪ねて徵君(徴士。官府に招かれた者。ここでは姜肱を指します)に会見を求め、叩頭謝罪して奪った物を返しました。
ところが姜肱はこれを受け取らず、酒食で労ってから還らせました。
桓帝が姜肱を召しましたが、姜肱が来ないため、桓帝は彭城に命じて画工にその姿を描かせました。しかし姜肱は幽闇(暗い場所)に臥して布団で顔を隠し、「眩疾(めまい、目くらみがする病)を患ったので風の中に出たくない(外に出たくない。原文「患眩疾不欲出風」)」と言います。
画工は結局、姜肱の姿を見ることができませんでした。
 
袁閎は袁安の玄孫です。袁安は明帝章帝和帝に仕えて三公に上りました。
袁閎は苦身して節を修め、招聘に応じませんでした。
 
韋著も隠居して学問を講授し、世務(治政の事)を修めませんでした。
 
李曇は継母が苦烈(酷烈)でしたが、ますます恭謹につかえました。四時(四季)の珍玩を得るといつも先に母に進めたため、郷里がこれを法(模範)にしました。
「四時の珍玩を得るといつも先に母に進めた」の部分は、『資治通鑑』では「得四時珍玩,未嘗不先拜而後進」で、直訳すると「四時の珍玩を得たら、先に拝して後に進めないことはなかった」となりますが、分かりにくいので、『後漢書周黄徐姜申屠列伝(巻五十三)』の注にある「得四時珍玩,先以進母」を元に訳しました。
 
桓帝は安陽の人魏桓も招きました。
同郷の人々が魏桓に上京を勧めましたが、魏桓はこう言いました「俸禄を受け入れて昇進を求めるのは、その志を行うためである(干禄求進所以行其志也)。今、後宮(の美女)は千を数えるが、これを減らすことができるか(其可損乎)?厩馬には万匹(万頭)がいるが、これを減らすことができるか(其可減乎)?左右に権豪がいるが、これを去らせることができるか(其可去乎)?」
同郷の人々は「できない(不可)」と答えます。
魏桓が憤慨嘆息して言いました(慨然歎曰)「桓(私)を生きているうちに行かせて死んでから帰らせても、諸子には何もないだろう(生きている間に出仕して望みの無い諫言を行い、皇帝の意志に逆らって殺されてから故郷に帰っても、上京を勧めた諸君には何の益もない。原文「使桓生行死帰,於諸子何有哉」)。」
魏桓は身を隠して出仕しませんでした。
 
 
 
次回に続きます。