東漢時代243 桓帝(二十一) 李雲と杜衆 159年(5)

今回も東漢桓帝延熹二年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
桓帝が梁冀を誅殺してから、故旧恩私桓帝との間に旧交や私恩がある者)の多くが爵位を受けました。
桓帝は皇后の父鄧香に車騎将軍を追贈して安陽侯に封じ、更に皇后の母宣を昆陽君に封じ、兄の子鄧康、鄧秉をどちらも列侯に封じました。皇后の宗族も全て列校、郎将になり、賞賜は巨万を数えます。
資治通鑑』胡三省注によると、「列校」は北軍五校尉、「郎将」は三署の中郎将を指します。
 
中常侍侯覧が縑(絹の一種)五千匹を献上したため、桓帝は関内侯の爵位を下賜し、更に梁冀誅殺を共に議論したことを理由に高郷侯に進めました。
また、小黄門劉普、趙忠等八人も郷侯に封じました。ここから権勢が宦官に帰すようになります。
中でも五侯(単超、徐璜、具瑗、左、唐衡)は特に貪婪放縦で、朝廷内外を傾動(震動)させました。
 
当時、災異がしばしば現れていたため、白馬令甘陵の人李雲が露布(封をしていない文書)で上書し、副書を三府に送りました。その内容はこうです「梁冀は権勢に頼って専断し(恃権専擅)、暴虐が天下に流れたので(虐流天下)、今、罪によって誅を行い、その様子は家臣を召して搤殺するようなものでした(家奴を殺すように簡単に誅殺しました。原文「猶召家臣搤殺之耳」)。しかし謀臣を万戸以上に猥封しています(梁冀が罰を受けるのは当然で、しかも簡単に誅殺されたのに、多く者が謀臣として妄りに万戸以上の封侯を受けています)。高祖がこれを聞いたら(陛下は)批難されずにいられるでしょうか(得無見非)。西北の列将(『資治通鑑』胡三省注によると、皇甫規、段熲等を指します)が解体(崩壊)せずにいられるでしょうか(得無解体)孔子は『帝とは「諦」である(原文「帝者諦也」。「諦」は物事を慎重に観察して明らかにすることです)』と言いました。今は官位が錯乱し、小人が阿諛によって昇進し(小人諂進)、財貨(賄賂)を公けに行い、政化(政道教化)が日に日に損なわれています。それなのに尺一(一尺一寸の板。詔書による拝用(任命)が御省(皇帝の審査)を経ていないのは、帝が『不諦』を欲しているからでしょうか(帝は詳しく観察して状況を把握するつもりがないのでしょうか。政治を放棄しているのでしょうか。原文「是帝欲不諦乎」)。」
 
上奏を得た桓帝は激怒して有司(官員)に李雲を逮捕させました。詔を発して尚書に左右都候の剣戟の士を指揮させ、李雲を黄門北寺獄に護送させます(原文「詔尚書都護剣戟送黄門北寺獄」。訳は『資治通鑑』胡三省注の「詔尚書総監左右都候剣戟士防送雲詣獄也」を参考にしました)
その後、中常侍管霸を派遣して御史、廷尉と共に審理させました。
 
この時、弘農郡の五官掾(『資治通鑑』胡三省注によると、郡には五官掾がいて、功曹や諸曹に欠員が生まれたら政務を代行しました)杜衆が忠諫によって罪を得た李雲を思って悲痛し、上書して「李雲と同日に死ぬことを願います」と朝廷に告げました。
桓帝はますます怒って杜衆も廷尉に下します。
 
大鴻臚陳蕃が上書しました「李雲が語ったことは、確かに禁忌を知らず、上(陛下)を冒して聖旨に逆らっていますが(干上逆旨)、その意は忠国に帰しているだけです。昔、高祖は周昌の不諱の諫(言葉を選ばない諫言)を忍び西漢の周昌は高帝を桀紂に譬えました。東漢安帝建光元年121年参照)、成帝は朱雲の腰領の誅(腰斬斬首)を赦しました西漢成帝元苑元年12年参照)。今日、李雲を殺したら、臣は剖心の譏(商王紂は諫言した賢人比干の胸を割いて殺しました。「剖心の譏」は比干を惨殺した紂に対する批難です)が再び世人によって議論されることになるのではないかと恐れます。」
 
太常楊秉、雒陽の市長沐茂(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽の市の長は秩四百石で大司農に属します。沐は氏で、漢代に東平太守沐寵という者がいました)、郎中上官資もそろって上書して李雲の命乞いをしました。
しかし桓帝の怨みは甚だしく、有司(官員)も陳蕃等を「大不敬」とみなして上奏しました。
桓帝は詔を発して陳蕃と楊秉を厳しく譴責し、罷免して田里に帰らせます。
沐茂と上官資は官秩二等を落とされました。
 
桓帝が濯龍池にいた時、中常侍管霸が李雲等の事を上奏しました(管覇は獄中で李雲等を審理し、死刑という判決を下しました。その旨が上奏されます)
資治通鑑』胡三省注によると、濯龍池は濯龍園の中にあり、北宮の付近です。
 
管霸は上奏文を提出してから、跪いてこう言いました(上奏文には死刑の判決が書かれていますが、最後に命乞いをします)「李雲は草沢(民間)の愚儒で、杜衆は郡中の小吏です。(彼等の言行は)狂戇(狂乱愚昧)から出ているので、罪を加えるには足りません。」
しかし桓帝は管霸にこう言いました「『帝は不諦を欲している(帝欲不諦)』とはどういう言葉だ(是何等語)。常侍はこれを赦したいと欲するのか(欲原之邪)。」
桓帝は振り向いて(後ろにいた)小黄門に管覇の上奏を批准させました(顧使小黄門可其奏)。李雲と杜衆は獄中で死にます(『後漢書桓帝紀』は翌年春に李雲の死を書いています。下述します)
この後、嬖寵桓帝の寵臣)がますます横行するようになりました。
 
太尉黄瓊は自分の力では宦官等の横行を制御できないと判断したため、病と称して起ちあがらなくなり、こう上書しました「陛下は即位以来、まだ勝政がなく(『資治通鑑』胡三省注によると、先代の朝廷より勝る善政が無いという意味です)、諸梁が秉権し(権勢を握り)、豎宦(宦官)が朝廷を充たし、李固と杜喬が既に忠言によって突然の残滅を見て(横見残滅)、李雲と杜衆もまた直道によって踵を継いで(跡を継いで)誅を受けました。そのため海内が傷懼(悲痛恐懼)してますます怨気を結び(益以怨結)、朝野の人が忠を諱(禁忌)としています。尚書周永はかねてから梁冀に仕えてその威勢を借りていたのに、梁冀が衰えるのを見てからは、(梁氏を)批判するふりをして(帝室に)忠を示し(陽毀示忠)、姦計を為したおかげで、封侯を得ました(周永は下邳高遷郷侯になりました)。また、黄門が姦邪を抱いて群輩が互いに徒党を組み(黄門挾邪群輩相党)、梁冀が興盛してからは腹背相親して(梁冀と腹と背の関係のように親密になり)、朝夕に謀を図って共に姦悪を成していたのに(共搆姦軌)、梁冀の誅殺に臨むと手の打ちようが無くなり(無可設巧)、今度はその悪に託して(梁冀の罪悪を攻撃することで)爵賞を要求しました(復託其悪以要爵賞)。しかし陛下は清澂(清澄。水が澄んでいる様子。『資治通鑑』は「清徵」としていますが、『後漢書左周黄列伝(巻六十一)』では「清澂」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)を加えず、真偽を審別(判別)することもなく、忠臣と共に(彼等も)併せて顕封(褒賞封侯)しており、白黒が混ざり合って(粉墨雑糅)、いわゆる金玉を砂礫に投げて珪璧(玉器)を泥道で割るという状況になっているので、四方がこれを聞いて、憤歎(憤慨嘆息)しない者はいません。臣は代々国恩を負い(原文「世荷国恩」。黄瓊の父黄香は尚書令を勤めて和帝に重用されました。和帝永元六年94年参照)、この身は軽くても位は重いので、敢えて垂絶(臨終)の日をもって不諱の言(隠し事が無い言葉。遠慮がない言葉)を述べます。」
上書が提出されましたが、桓帝は受け入れませんでした。
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』からです。
初めて祕書監の官を置きました。
『孝桓帝紀』の注によると、祕書監は一人で秩六百石です。
 
[十五] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月壬申(初五日)桓帝長安行幸しました。
乙酉(十八日)、未央宮を訪ねました。
甲午(二十七日)、高廟を祀りました。
十一月庚子(初四日)、十一陵を祀りました。
 
[十六] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
中常侍単超が病を患いました。
壬寅(初六日。『資治通鑑』は十月に書いていますが、『孝桓帝紀』では十一月です。『資治通鑑』の誤りです)、単超を車騎将軍に任命しました。
 
かつて順帝を擁立した宦官孫程は死んでから車騎将軍の官位を追贈されました(順帝陽嘉元年・132年)。今回、桓帝も単超に対する厚遇を示すために車騎将軍の官位を授けました。単超は翌年に死にます。
 
[十七] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月己巳(初三日)桓帝長安から帰還しました。
 
長安の民に一人当たり粟十斛を、園陵では一人当たり五斛を、経由した県の民には三斛を下賜しました。
 
[十八] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
焼当、焼何、当煎、勒姐等八種(族)の羌人が隴西金城塞を侵しましたが、護羌校尉段熲が撃破して羅亭まで追撃し、酋豪以下二千級を斬って生口(捕虜)一万人を獲ました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、『東観漢記』では「追撃して積石山に至った」としています。積石山と羅亭は近い距離にあったようです(清代にまとめられた『欽定四庫全書東観漢記』の「桓帝延熹二年(本年)」にはこの記述がありません。胡三省が確認した『東観漢記』とは版本が異なるようです)
資治通鑑』は『後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』に従っており、本年は羅亭まで追撃して翌年延熹三年)に積石山に至っています。『東観漢記』は翌年の事(積石山に至った事)を誤って本年に書いたのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。