東漢時代245 桓帝(二十三) 四侯 160年
庚子 160年
桓帝が詔を発して李固の後嗣を求めました。
以前、李固が策書によって罷免された時(質帝本初元年・146年)、禍から逃れられないと知って三子を故郷に帰らせました。三子は李基、李茲、李燮といいます。
この時、李燮は十三歳で、姉の李文姫が同郡の趙伯英に嫁いでいました。李文姫は二人の兄が帰って来たのを見て事の本末を全て知り、黙って一人で悲痛してこう言いました「李氏は滅ぶことになってしまいました(李氏滅矣)。太公(祖父・李郃。李固の父)以来、徳を積んで仁を重ねてきたのに、なぜこのような事に遇うのでしょう(何以遇此)。」
李文姫は秘かに二人の兄と相談し、禍が起きる前に李燮を隠して「李燮は京師に還った」と偽りました。人々はこれを信じます。
暫くして禍難が起こり、州郡が李基と李茲を逮捕しました。二人とも獄中で死にます。
そこで李文姫は父(李固)の門生・王成にこう告げました「君(あなた)は先公(李固)に対する義を守り(執義先公)、古人の節(節操。気風)があります。今、君(あなた)に六尺の孤(孤児。『資治通鑑』胡三省注によると、六尺は十五歳以下の未成年を指します)を委ねます。李氏の存滅は君(あなた)にかかっています(其在君矣)。」
王成は李燮を連れて長江を東に下り、徐州界内に入りました。李變は姓名を変えて酒家の傭(使用人)になり、王成は市で卜をして生活し、互いに他人のふりをして陰で往来を続けます。
その後、十余年が経って梁冀が誅殺されたため、(本年、李固の後嗣が赦されてから)李燮が酒家に全てを語りました。
酒家が車と厚い礼物を準備して李燮に贈ろうとしましたが(具車重厚遣之)、李燮は受け取りませんでした。
李燮は郷里に帰ってから遡って喪に服しました(追行喪服)。姉と弟が再会し、周りの者が悲傷・感動します。
姉が李燮を戒めて言いました「我が家は血食(祭祀)が絶えようとしましたが、幸いにも弟が助かりました。天意でないはずがありません(豈非天邪)。衆人との関係を杜絶し、妄りに往来してはならず、慎重な態度をとって一言も梁氏に加えてはなりません(一言も梁氏を批難してはなりません)。梁氏に(批判を)加えたら主上に関連することになるので(梁氏を批判したら陛下を批判することになるので)、禍が重ねて(改めて)至るでしょう。自分を咎めるだけにするべきです(唯引咎而已)。」
李燮は謹んで姉の教えに従いました。
後に王成が死ぬと、李燮は礼を用いて埋葬し、四節(四季)ごとに上賓の位を設けて(王成の位牌を上賓の位に置いて)祭祀を行いました。
『李杜列伝』によると、李燮は州郡や四府に招かれても全て応じませんでしたが、更に後に朝廷から召されて議郎になりました。
丙午(十一日)、車騎将軍・新豊侯・単超が死にました。
この後、四侯がますます横柄になり、天下がこう言いました「左回天,具独坐,徐臥虎,唐雨墮。」
「左回天」は「左悺は天を回す(天を動かす)」、「具独坐」は「具瑗は一人で座る(並ぶ者がいない)」、「徐臥虎」は「徐璜は臥虎(横になった虎)のように恐れられている」という意味です。
「唐雨墮」は「唐衡は雨が降る時のようだ」です。『資治通鑑』胡三省注によると、「雨墮」は「雨が降った場所が全て濡れるように、害毒が流れて天下に行き渡っている」という説と、「突然降る雨のように性急乱暴で、喜怒が安定していない」という説があります。
四人は競って第宅(邸宅)を建て、互いに華侈(豪華・奢侈)を求めました。僕従も皆、牛車に乗って列騎を従えています。
彼等の兄弟姻戚は州郡を治めて(宰州臨郡)百姓から財物を奪い(原文「辜較百姓」。「辜較」は財物を集めて独占するという意味です)、盗賊と区別が無く、天下のいたる所で暴虐を行いました。
民は負担に耐えられなくなり(民不堪命)、多くの者が盗賊に身を落としました。
そこで済北相・滕延が全て逮捕して数十人を殺し、路衢(四方に通じる大通り)に死体を並べました。
左悺の兄・左勝が河東太守になると、皮氏長(皮氏は県名です)・京兆の人・趙岐がこれを恥と思い、即日、官を棄てて西に帰りました。
この時、唐衡の兄・唐玹が京兆尹を勤めており、かねてから趙岐と対立していたため、趙岐の家属宗親を逮捕して重法に陥れ、全て殺してしまいました。趙岐は難から逃れて四方各地を転々とし(逃難四方靡所不歴)、姓名を隠して北海の市中で餅(小麦を練って作った食物)を売って生活しました。
閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏正月」としています)、西羌の余衆(前年、焼当・焼何・当煎・勒姐等八種(族)の羌人が隴西金城塞を侵しましたが、護羌校尉・段熲に撃破されました。その時の余衆です)が再び焼何の大豪と共に張掖を侵しました。
早朝、校尉・段熲の軍に迫ります。
段熲は馬から下りて大戦しました。戦いは日中に及び、刀が折れて矢が尽きましたが、羌人も後退したため、段熲が追撃を始めます。戦いながら行軍を続け、昼夜とも交戦し、肉を割いて(進軍しながら軍馬等を食べたのだと思われます)雪を食べ、四十余日後に積石山に至ってついに大破しました。
段熲は塞から出て二千余里も兵を進め、焼何の大帥を斬って他の部衆も降してから帰還しました。
夏四月、上郡が「甘露が降った」と報告しました。
五月甲戌(十一日)、漢中で山崩れがありました。
六月辛丑(初九日)、司徒・祝恬が死にました。
秋七月、司空・盛允を司徒に、太常・虞放を司空に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、虞放の字は子仲で陳留の人です。
長沙蛮が益陽を侵し、零陵蛮が長沙を侵しました。
九月、太山(泰山)・琅邪の賊・労丙等がまた叛して百姓を寇掠(侵犯・略奪)しました。
朝廷は御史中丞・趙某(名は不明です)を派遣し、符節を持って州郡を監督させ、労丙等を討ちました。
順帝建康元年(144年)に日南の蛮夷が叛しましたが、当時、交趾刺史だった夏方が招誘して降しました。『後漢書・南蛮西南夷列伝(巻八十六)』によると、その後、夏方は桂陽太守になりましたが、今回再び交趾刺史に任命されました。
夏方はかねてから威恵(威信と恩徳)が知られていました。
冬十一月、日南の蛮賊二万余人が相次いで夏方を訪ねて投降しました。
勒姐と零吾種(族)の羌人が允街を包囲しましたが、段熲が撃破しました。
泰山(太山)の賊・叔孫無忌(前年参照)が都尉・侯章を攻めて殺しました。
十二月、朝廷が中郎将・宗資を派遣して討伐させ、これを破りました。
桓帝が詔を発して皇甫規を招き、泰山太守に任命しました。
皇甫規は着任すると広く方略を設け、寇虜(盗賊。挙兵した勢力)を全て平定しました。
[十四] 『後漢書・孝桓帝紀』はここで「武陵蛮が江陵を侵した。車騎将軍・馮緄が討伐し、皆、降散(投降解散)した。荊州刺史・度尚が長沙蛮を討って平定した」と書いていますが、延熹五年(二年後)の出来事が誤って記載されているようです。
次回に続きます。