東漢時代246 桓帝(二十四) 161年(1)

今回は東漢桓帝延熹四年です。二回に分けます。
 
辛丑 161
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛酉(初二日)、南宮嘉徳殿で火災がありました。
 
戊子(二十九日)、丙署で火災がありました。
丙署は官署名です。『資治通鑑』胡三省注によると、丙署長は七人おり、秩四百石で黄綬を持ちました。全て宦者です。
後漢書百官志三』には「黄門署長、画室署長、玉堂署長は各一人。丙署長は七人で、皆四百石。黄綬(を持つ)」「宦者。それぞれ中宮の各所を担当した(各主中宮別処)」とあります。丙署が具体的に何を管理したのかは分かりません。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
大疫(疫病)に襲われました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月壬辰(初三日)、武庫で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒盛允を罷免し、大司農种暠を司徒にしました。
 
『欽定四庫全書後漢紀』は昨年六月に「司徒祝恬が死んだ。光禄勳种暠を司徒にした」と書いていますが、『後漢書桓帝紀』では前年、祝恬が死んでから、盛允が司徒になっており、本年、种暠が大司農から司徒になっています。『資治通鑑』は『孝桓帝紀』に従っています。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
三月、冗従右僕射の官桓帝永寿三年・157年参照)を廃しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉黄瓊を罷免しました。
夏四月、太常沛国の人劉矩を太尉にしました。
 
以前、劉矩は雍丘令を勤めており、礼譲によって民を教化しました。訴訟があるといつも訴えた者を前に出させて丁寧に訓告教導し(原文「提耳訓告」。「提耳」は耳を引いて寄せるという意味ですが、懇切丁寧に教え諭すことを表します)、「忿恚(怒り)は忍ぶことができる。県官が介入するべきではない(忿恚可忍,県官不可入)」と諭してから、訴えた者を帰して再考させました。
訴えた者達は劉矩の言に感動し、常に訴訟を取りやめて去っていきました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲寅(二十六日)、河間孝王劉開の子に当たる参戸亭侯劉博を任城王に封じて任城孝王劉尚の家系を継がせました。
 
河間孝王劉開は章帝の子で、桓帝の祖父です。
任城孝王劉尚は東平王劉蒼(「献王」。または「憲王」。光武帝の子)の子で、章帝元和元年84年)に封王されました。劉尚の後、貞王劉安、節王劉崇と継ぎましたが、桓帝元嘉元年151年)に劉崇が死に、子がいなかったため廃されていました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月辛酉(初四日)、孛星が心宿に現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、心宿には三星がありました。中星は明堂で天子の位に当たり、前星は太子、後星は庶子に当たります。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁卯(初十日)、原陵(光武帝)の長寿門で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
己卯(二十二日)、京師で雹が降りました。
『孝桓帝紀』の注によると、雹は雞子(鶏の卵)ほどの大きさがありました。
 
[十一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、京兆、扶風と涼州地震がありました。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚子(十三日)、岱山と博(県名)の尤来山で(崩裂。山崩れ)がありました。
 
岱山は泰山です。『資治通鑑』胡三省注によると、尤来山は徂来山の別名です。
二山とも博県界内にありましたが、『後漢書桓帝紀』『資治通鑑』とも「岱山と博の尤来山」と書いています。胡三省の解説によると、岱山は人々に知られているのに対して、尤来山は博県内にあることを知らない人もいるため、敢えて「博の尤来山」と書いたようです。
 
[十三] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
己酉(二十二日)、天下に大赦しました。
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空虞放を罷免し、元太尉黄瓊を司空に任命しました。
 
[十五] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
犍為属国(安帝永初元年107年に犍為南部都尉が犍為属国都尉に改められ、朱提と漢陽の二県を治めることになりました)の夷人が百姓を侵して奪いましたが、益州刺史山昱(山が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、古の烈山氏の後代です。一説では周代に山林を管理する「山師」という官があり、後に官名から氏になりました)が撃破しました。
 
[十六] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
零吾羌と先零諸種(先零羌諸族)が共に叛して三輔を侵しました。
 
[十七] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、京師で雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[十八] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
公卿以下の奉(俸禄)を減らし、王侯から半租(田租の半分)を借りました。
また関内侯、虎賁、羽林、緹騎、営士、五大夫の官位にそれぞれ差をつけて額を定め、売り出しました。



次回に続きます。

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