東漢時代247 桓帝(二十五) 劉寵 皇甫規 161年(2)

今回は東漢桓帝延熹四年の続きです。
 
[十九] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、司空黄瓊を罷免し、大鴻臚東莱の人劉寵を司空に任命しました。
 
劉寵はかつて会稽太守を勤め、煩多苛酷な法令を減免排除し(簡除煩苛)、法を守らない者を糾弾監察したため(禁察非法)郡中が大いに治まりました。
朝廷が劉寵を招いて将作大匠に任命した時、山陰県の五六人の老叟(男の老人)が若邪山の谷間から出て来ました。それぞれ百銭をもって劉寵を贈り、こう言います「山谷の鄙生(賎しい者。知識がない人)は今まで郡朝(郡の官署。または太守)を知りませんでした(太守に会ったことがありませんでした。原文「未嘗識郡朝」)。他守(他の太守)の時は、吏が民間に発求(徴発要求)し、夜になっても絶えることなく、ある時は犬が夜中吼えて民が安寧を得られませんでした(或狗吠竟夕民不得安)。しかし明府(劉寵)が下車して以来、犬が夜に吼えなくなり、民が吏を見ることもなくなりました。年老いてから聖明に廻り逢えたのに(遭値聖明)、今、(私達を)棄てて去ることになったと聞いたので、自ら助けあって送り出しに来たのです(聞当見棄去故自扶奉送)。」
劉寵は「私の政治がどうして公の言に及ぶだろうか(公等が言うほど立派ではない。原文「吾政何能及公言邪」)。父老を勤苦させてしまった(勤苦父老)」と言い、それぞれから一枚の大銭だけ選んで受け取りました。
 
後漢書循吏列伝(巻七十六)』によると、劉寵はこの後、宗正を経て大鴻臚になり、本年、黄瓊に代わって司空に任命されました。
 
[二十] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
冬十月、天竺国が来献しました。
 
[二十一] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
南陽の黄武と襄城の恵得、昆陽の楽季が妖言によって誅に伏しました。
原文は「訞言相署皆伏誅」です。「署」は「部署」「配置」の意味なので、三人は互いに挙兵の準備をしていたのかもしれません。
 
[二十二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
先零沈氐羌と諸種羌(羌の諸族)が并涼二州を侵しました。
護羌校尉段熲が湟中の義従を率いてこれを討伐します。
資治通鑑』胡三省注によると、湟中には義従胡(漢に帰順した少数民族がいました。小月氏(小月氏族)がこれに当たります。
 
涼州刺史郭閎は功績を段熲だけのものにさせないため、段熲の軍を停留させて前に進めないようにしました。
義従の胡人は兵役に就いて久しくなり、故郷を恋したため、皆、離反して帰ってしまいます。
郭閎はその罪を段熲に帰しました。
段熲は罪に坐して京師に呼び戻され、獄に下されて左校で労役することになりました(輸作左校)
 
済南相胡閎が段熲に代わって校尉になりましたが、威略(威信と智略)がなかったため、羌人が勢いを増しました(原文「羌遂陸梁」。「陸梁」は横行する、勢いを増すという意味です)。営塢(営塁)を攻略したり、互いに結びあって諸郡を侵し、寇患が甚だしくなります。
 
泰山太守皇甫規が上書しました「今、狡猾な賊が当地で滅んで泰山がほぼ平定されましたが(猾賊就滅泰山略平)、また群羌が並んで皆、反逆していると聞きました。臣は邠岐(豳岐。豳山岐山一帯)で生長して(生まれ育って)年が五十九になり、昔、郡吏を勤めた時は、羌の叛乱を二回経験し(再更叛羌)、あらかじめその事を謀って羌族との戦いを予測して)不幸にも的中してしまいました(『資治通鑑』胡三省注によると、馬賢の敗戦を予測したことを指します。順帝永和六年141年参照。原文「豫籌其事有誤中之言」)。臣はかねてから痼疾(難病)があるので、犬馬の歯が窮して大恩に報いられなくなることを恐れます(原文「恐犬馬歯窮不報大恩」。「犬馬の歯が窮す(犬馬歯窮)」というのは老将がもうすぐ死ぬという意味です)。よって、冗官(散官。実務が無い官位)を乞い、単車を準備して一介の使(使者)となり、三輔で労来(慰労順撫して帰順させること)し、国の威沢(威信と恩徳)を宣揚して、習熟した地形と兵勢によって諸軍を佐助(補助)することを願います。
臣は孤危(孤独危険)の中で窮居(隠居)し、坐して郡将(太守)を観察すること数十年になりますが、鳥鼠から東岱に至るまでその病(弊害。病原)は一つです(『資治通鑑』胡三省注から解説します。鳥鼠は山の名で、先零羌が侵略しました。東岱は泰山で叔孫無忌が挙兵した場所です。全て郡守が按撫を加えなかったため、反叛を招きました)。尽力して猛敵を求めるよりも、清平にした方がましです(強敵を探して戦うよりも、清平な政治を行って順撫した方がましです。原文「力求猛敵不如清平」)。努力して『孫子』や『呉子』の兵法に精通するよりも、(太守が)法を遵守した方がましです(勤明孫呉未若奉法)。前変(以前の羌人の叛乱)から遠くないので、臣は誠にこれを憂いており(臣誠戚之)、そのため職責を越えて区区(小人の意見、心情)を尽くしました(是以越職尽其区区)。」
 
桓帝は詔を発して皇甫規を中郎将に任命しました。符節をもって関西の兵を監督し、零吾等を討伐させます。
 
十一月、皇甫規が羌人を撃って破りました。八百級を斬首します。
先零の諸種羌(諸羌族は皇甫規の威信を慕っていたため、互いに勧めあって十余万人が投降しました。
 
[二十三] 『後漢書桓帝紀』からです。
十二月、夫餘王が使者を派遣して来献しました。
 
 
 
次回に続きます。