東漢時代249 桓帝(二十七) 皇甫規失脚 162年(2)

今回は東漢桓帝延熹五年の続きです。
 
[十七] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武陵蛮も反して江陵を侵しました。
南郡太守李粛が奔走(逃走)しようとしたため、主簿胡爽が李粛の馬の首を牽いて諫めました「蛮夷は郡に儆備(警備)が無いのを見たので、隙に乗じて進攻しているのです(故敢乗間而進)。明府(太守)は国の大臣となり、城を千里に連ねているので、旗を挙げて鼓を鳴らせば十万が呼応します(応声十万)。なぜ符守の重(朝廷から符を与えられた太守の重任)を棄てて逋逃(逃亡)の人になるのですか(柰何委符守之重而為逋逃之人乎)!」
李粛が刃を抜いて胡爽に言いました「掾(属官。胡爽)は速やかに去れ(促去)!太守は今急いでいるのだ。どこにそれを考えている暇があるか(太守今急,何暇此計)!」
しかし胡爽が馬を抱えたまま強く諫めたため、李粛は胡爽を殺して逃走しました。
これを聞いた桓帝李粛を召還して敗走の罪を問い、棄市に処しました。
劉度と馬睦は死一等を減らされます。
胡爽は門閭(家門。家族)賦役が免除され(復爽門閭)、家から一人が郎に任命されました。
 
尚書朱穆の推挙によって、右校令山陽の人度尚が荊州刺史に任命されました。
資治通鑑』胡三省注によると、「右校令」は右工の徒を管理し、秩は六百石で将作大匠に属します。
度氏は顓頊から生まれており、楚と同姓で熊缺(詳細はわかりません)の後代といわれています。また、古の掌度の官(法度を担当する官)が度を氏にしたともいいます。
 
辛丑(二十二日)、朝廷が太常馮緄を車騎将軍に任命し、兵十余万を率いて武陵蛮を討伐させました。
後漢書桓帝紀』は延熹三年(二年前)十二月に「武陵蛮が江陵を侵した。車騎将軍馮緄が討伐し、皆、降散(投降解散)した。荊州刺史度尚が長沙蛮を討って平定した」と書いており、本年十月にも「辛丑、太常馮緄を車騎将軍に任命してこれを討った」と書いています。『資治通鑑』胡三省注は「延熹三年の記述が誤りで延熹五年(本年)の事とするのが正しい」と判断しています。
後漢書張法滕馮度楊伝(巻三十八)』でも延熹五年に荊州刺史劉度と南郡太守李粛が逃走し、馮緄が車騎将軍に、度尚が荊州刺史になっています
 
本文に戻ります。
これ以前は朝廷が将帥を派遣した時、多くの将帥が宦官から「折耗軍資(軍需物資の浪費、消耗)」を理由に陥れられ、往往にして罪を問われてきました。そこで馮緄は中常侍一人に軍の財費を監督させるように請いました。
尚書朱穆が上奏しました「馮緄は財について疑いを抱いており(財物に関する事で疑いを抱いており。財物に関する罪から逃れようとしており。原文「以財自嫌」)、大臣の節を失っています。」
しかし桓帝は詔を発して弾劾しないように命じました。
 
馮緄は元武陵太守応奉が参軍することを請いました。朝廷は応奉を従事中郎に任命します。
資治通鑑』胡三省注によると、将軍が出征する時は従事中郎が謀議に参与しました。
 
[十八] 『後漢書桓帝紀』からです。
朝廷が公卿以下の俸禄を借りました。
また、王侯の租(田租)を使って軍糧を助け、借りた田租は濯龍中藏(濯龍園の中藏府)の金銭に換えて王侯に返しました。
 
[十九] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、馮緄軍が長沙に至りました。
それを聞いた賊は全て馮緄の営を訪ねて投降を乞います。
 
馮緄は進軍して武陵で叛蛮(武陵蛮)を大破し、四千余級を斬首して十余万人の投降を受け入れました。こうして荊州が平定されます。
 
桓帝詔書を発して銭一億を下賜しましたが、馮緄は固辞して受け取らず、兵を整えて京師に還ってから、功績を応奉に帰しました。応奉は馮緄の推挙によって司隸校尉になります。
馮緄自身は上書して引退を乞いましたが(乞骸骨)、朝廷が許しませんでした。
 
[二十] 『後漢書桓帝紀』からです。
京兆虎牙都尉宗謙が貪汚の罪に坐して獄に下され、死にました。
『孝桓帝紀』によると、京兆虎牙都尉は長安に駐屯していました。
 
[二十一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
滇那羌が武威、張掖、酒泉を侵しました。
 
[二十二] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉劉矩を罷免し、太常楊秉を太尉に任命しました。
 
[二十三] 『資治通鑑』からです。
皇甫規は符節を持って将になり、郷里に還って軍を監督しましたが、特に私恵(私恩。個人的に恩恵恩徳がある関係。または賄賂)がなく、逆に官員を弾劾する上奏を多数行い、しかも宦官を嫌悪して交流しませんでした。
そのため朝廷内外が怨みを抱き、共に「皇甫規は群羌に貨賂(賄賂)を贈り、投降を偽る文を書かせました(群羌は本心から投降しているのではありません。原文「令其文降」)」と誣告しました。
桓帝が繰り返し璽書詔書を送って皇甫規を譴責するようになります。
 
皇甫規が上書して無実を訴えました「四年(昨年)の秋、戎醜少数民族が蠢戾(騒乱)したので、旧都長安が懼駭(恐慌)して朝廷が西顧しました(西方を注視しました)。そこで臣が国の威霊を振るって羌戎を稽首させ、省いた費は一億以上になりました。忠臣の義(道理)とは敢えて労を報告するものではないと考えたので、片言によって自ら微效(微功)を述べることを恥じとしましたが、先事(以前の敗将)と比べたら、罪悔(罪過)から免れられるはずです(自ら功労を報告する必要はないと考えてきましたが、敢えて報告するのなら、今までの敗将よりは自分の方が優れているはずです)
(臣は)以前、州界に入ってまず孫雋、李翕、張稟(の罪状)を上奏し、師(軍)を帰して南征してから(旋師南征)、また郭閎、趙熹(の罪状)を上書してその過悪を述べ、大辟(死刑)の根拠にしました(執拠大辟)。この五臣は半国(天下の半分)に党羽がいたため(支党半国)、彼等以外にも墨綬以下、小吏に至るまで、牽連する者が百余もいました。そこで官吏は将(郡将。太守)の怨みに報いることを託そうとし(各郡の官吏は刑を受けた太守の怨みを晴らすために。原文「吏託報将之怨」)、子は父の恥を雪ぎたいと思って(子思復父之恥)、それぞれ礼物を載せて車を駆けさせ、食糧を懐に入れて歩走し(載贄馳車懐糧歩走)、豪門と交わって(交構豪門)競って謗讟(誹謗)を流し、臣が個人的に(投降した)諸羌に報いて銭貨を報酬として与えている(臣私報諸羌讎以銭貨)と言いました。しかしもしも臣が私財を用いたと言うのなら、家には擔石(一擔一石。わずかな食料)もありません。もしも物(財貨)が官から出たのなら、文簿(文書・帳簿によって容易に調べられます(文簿易考)
そもそも臣を困惑させているのは(就臣愚惑)、誠に彼等が言う通りだとしても(信如言者)、前世では宮姫をもって匈奴に贈り西漢王昭君等を指します)、公主をもって烏孫を鎮めたこともありました烏孫昆莫に嫁いだ劉細君等です)。今、臣がわずか千万を費やして叛羌を懐柔したのは、良臣の才略であり、兵家が貴ぶべきことです。何の罪があって義を裏切り理に違えたのでしょうか。
永初(安帝の年号)以来、将の出征は少なくありません。その中には覆軍(全滅)が五回あり(『資治通鑑』胡三省注によると、冀西で敗れた鄧騭、平襄で敗れた任尚、丁奚城で敗れた司馬鈞、射姑山で敗れた馬賢、鸇陰河で敗れた趙沖を指します)、動かした資(費用)は巨億に上りました。しかしある者は帰還する車に完全に封をして権門に運んだおかげで(原文「有旋車完封寫之権門」。『資治通鑑』胡三省注によると、朝廷が軍の費用として調達した金幣を帰還するまで封も開かず、そのまま権門に運びました。または戦利品の珍宝を車に載せて権門に贈ったのかもしれません)、名と功が成って(名成功立)厚く爵封を加えられました。今、臣は本土(故郷)に還って諸郡を糾挙(糾弾検挙)し、交わりを断って親族からも離れ(絶交離親)、旧故(旧友知人)に受刑させて辱しめているので(戮辱旧故)、衆謗陰害(衆人が誹謗して陰で害を与えること)があるのは当然のことです(固其宜也)。」
桓帝は皇甫規を呼び戻して議郎にしました。
 
本来、皇甫規の功績は封侯に値します。ところが中常侍徐璜と左が財貨を求めるためにしばしば賓客を派遣して功状(功績の詳しい状況)を聞いても、皇甫規が最後まで答えなかったため、徐璜等は忿怒(憤懣怨怒)して前事(以前、誣告した内容)を理由に皇甫規を陥れ、官吏に下して調査させました。
皇甫規の官属が財を集めて徐璜等に謝ろうとしましたが(欲賦斂請謝)、皇甫規は誓いを立てて同意しません。
その結果、皇甫規は「余寇が絶たれていない(賊が完全に滅んでいない)」という理由で廷尉に繋がれ、左校で労役する刑に処されました(論輸左校)
これに対して諸公や太学張鳳等三百余人が宮闕を訪ねて冤罪を訴えました。
ちょうど大赦に遇ったため、皇甫規は家に帰ることができました。
 
 
 
次回に続きます。