東漢時代250 桓帝(二十八) 朱穆 163年

今回は東漢桓帝延熹六年です。
 
癸卯 163
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月戊午(十一日)、司徒种暠が死にました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊戌(二十二日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
衛尉潁川の人許栩を司徒に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、許栩の字は季闕といい、郾の人です。郾は潁川郡に属します。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月辛亥(初五日)、康陵(殤帝陵)の東署で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、鮮卑が遼東属国を侵しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月甲申(初十日)、平陵(昭帝陵)の園寝で火災がありました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
桂陽の盗賊李研等が郡界を侵し、武陵蛮もまた叛しましたが、太守陳奉(『資治通鑑』では「陳挙」、『後漢書桓帝紀』では「陳奉」です)が大破してこれらを降し、平定しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
隴西太守・孫羌が滇那羌を討って破りました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
前年、荊州を平定した車騎将軍・馮緄は、かねてから宦官に嫌われていました。
八月、馮緄が軍を還してから盗賊が再び蜂起したため、馮緄が罪を問われて罷免されました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月丙辰(十三日)桓帝が広成苑で校猟(狩猟の一種)し、その後、函谷関と上林苑を行幸しました。
 
光禄勳陳蕃が上書して諫めました「安平(安泰)の時でも遊畋(遊田。狩猟)には節があるべきです。今は三空の戹(厄。災難)があり、田野が空、朝廷が空、倉庫が空という状態なのでなおさらです。加えて兵戎(戦争)がまだ止まず、四方が離散しているので、陛下にとっては焦心毀顔し、坐して旦(朝)を待つべき時です(心を焦らせて顔に憂色を浮かべ、夜も寝ていられない時です)。どうして旗を掲げて武を誇示し、車馬の景観に心を楽しませていられるのでしょうか(豈宜揚旗曜武,騁心輿馬之観乎)。また、先頃は秋に雨が多く降ったので、(最近やっと)民が麦の種撒きを始めました(前秋多雨民始種麦)。今、勧種の時を失い(種撒きを奨励する時を無視して)、令を発して駆禽・除路の役(禽獣を駆逐して道を開く労役)を与えているのは、賢聖による恤民の意(聖人が民を想う本意)ではありません。」
上書が提出されましたが、桓帝は採用しませんでした。
 
[十一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、司空劉寵を罷免しました。
 
[十二] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
南海の賊が郡の界内を侵しました。
 
[十三] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、衛尉周景を司空に任命しました。周景は周栄(和帝永元四年92年参照)の孫です。
 
当時は宦官の勢力が旺盛だったため、周景と太尉楊秉が上書しました「内外の吏職の多くがその人(相応しい人材)ではありません。旧典では、中臣(宦官)の子弟は高位に就いて権勢を握ることができませんでした(不得居位秉勢)。しかし今はその枝葉(親族)や賓客が職署(官府)に布列(分布)し、あるいは年少の庸人(凡庸な人)でも守宰(太守や県令)を典拠(掌握)しているため、上下が忿患(憤懣憂患)し、四方が愁毒(憂愁怨恨)しています。よって、旧章を遵用し、貪残(貪婪暴虐)を退け、災謗(天災と批難)を塞ぐべきです。司隸校尉、中二千石、城門五営校尉、北軍中候に命じてそれぞれ管轄の部を実覈(実態の調査)させ、斥罷(排斥罷免)すべき者がいたら司隸校尉等が)自ら三府(三公府)に状況を述べ、廉察(考察)に遺漏があったら(相応しくない者がいなくなるまで)引き続き報告させることを請います。」
資治通鑑』胡三省注によると、司隸校尉は三輔と三河、弘農を管理しました。中二千石は列卿です。城門校尉は十二城門司馬や門候を管理しました。五営校尉は屯騎越騎歩兵長水射声の校尉で、それぞれ司馬員吏(所属の官吏)がいます。北軍中候は五営を掌監しました。
 
桓帝はこの上書に従いました。
楊秉が牧(州刺史)(太守)に関する條奏(箇条書きにして上奏すること)を行い、青州刺史羊亮等五十余人が死刑に処されたり罷免されたため、天下で粛然としない者はいませんでした。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
桓帝が詔を発して皇甫規を招き、度遼将軍に任命しました。
 
以前、張奐は梁冀の故吏(旧部下)だったため、免官のうえ禁錮に処されました。旧交があった者は誰も敢えて張奐のために発言しようとしませんでしたが、皇甫規だけは張奐を推挙して前後七回にわたる上書をしました。
その結果、張奐は武威太守に任命されました。
 
皇甫規が度遼将軍になり、軍営に入って数カ月経ってから、また張奐を推薦する上書をしました「(張奐は)才能と智略が共に優れているので(才略兼優)、元帥の位を正して衆望に従うべきです(宜正元帥以従衆望)。もしもなお愚臣を軍事(『資治通鑑』では「挙事」ですが、『後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』では「軍事」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)に充てるべきだ(皇甫規に軍事を担当させるべきだ)と言うのなら、冗官(散官。実務が無い官位)を乞い、張奐の副(副官)になることを願います。」
朝廷はこの意見に従いました。
張奐が皇甫規に代わって度遼将軍になり、皇甫規は使匈奴中郎将になります。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
西州の吏民が宮闕を囲んで元護羌校尉段熲のために冤罪を訴えました桓帝延熹四年161年参照)。その数が甚だ多くなります。
ちょうど滇那等の諸種羌がますます盛んになり、涼州が滅びそうになったため、朝廷は再び段熲を護羌校尉に任命しました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
尚書朱穆が宦官の恣横(縦横専横)を憎んで上書しました「漢の故事に基くなら、中常侍は士人も参選(選抜の対象に入ること)していましたが、建武光武帝以後、ことごとく宦者を用いるようになり、延平(殤帝)以来、徐々に貴盛を増して(浸益貴盛)、貂璫の飾を授けられ(「貂」は「貂の尾」、「璫」は「蝉の形をした装飾」で、どちらも冠につけます。『資治通鑑』胡三省注によると、中常侍は秦代に置かれた官で、西漢時代は士人も用いられていました。当時の冠の装飾は「銀璫左貂(正面に銀製の璫、左側に貂の尾をつけます)」です。光武帝以後、宦者だけを用いるようになり、「右貂金璫(正面に金製の璫、右側に貂の尾をつけます)」に改められました)、常伯(侍中)の任に位置し、天朝の政事は全てその手を経ています(一更其手)(宦官の)権は海内を傾け、寵貴が極まることなく、子弟親戚が並んで栄任(重任。栄誉な職務)を負い、放濫驕溢(放縦で節度がなく驕慢横柄なこと)で禁禦(禁止、制御)できる者が無く、天下を窮破(窮困)させ、小民を空竭にしています(枯渇させています)。愚臣が思うに、全て罷省(罷免廃除)して往古を遵守恢復させ遵復往初)、改めて海内から清淳の士で国体に明達した者を選んでその処(宦官や親族子弟がいた官位)を補うべきです。そうすれば兆庶黎萌(万民。「黎萌」は通常「黎民」と書きます)が聖化を蒙ることができます(蒙被聖化矣)。」
桓帝はこの意見を採用しませんでした。
 
後に朱穆が桓帝に謁見する機会があったため、口頭でこう述べました「臣が聞くに、漢家の旧典では侍中と中常侍を各一人置いて尚書の事を看させ(省尚書事)、黄門侍郎を一人置いて書奏を伝発させ(皇帝の命令や臣下の上奏文を伝達させ)、皆、姓族(大族)が用いられました。しかし和熹太后が女主として称制してからは、公卿と接しなかったため、閹人(宦官)を常侍にして小黄門が両宮(皇帝と太后の間で命を伝達しました。この時以来、(宦官の)権が人主を傾け、天下を窮困させるようになったのです。(宦官を)全て罷免して還らせ(皆罷遣)、広く耆儒宿徳(徳がある老齢の儒者を選んで共に政事に参与させるべきです。」
桓帝は怒って応えませんでした。
しかし朱穆は伏したまま立ちあがろうとしません。
左右の者が「退出せよ」という皇帝の命令を伝えたため(伝出)、久しくしてやっと小走りで退出しました。
 
この後、中官(宦官)がしばしば理由を探し、詔と称して朱穆を詆毀(誹謗中傷)しました。
朱穆は元から剛直だったため、間もなくして、志を得られないまま憤懣の中で疽(腫物)ができて死んでしまいました。
 
以下、『後漢書朱楽何列伝(巻四十三)』から抜粋します。
延熹六年(本年)、朱穆が死んだ時の年齢は六十四歳でした。
朱穆は数十年も官界にいましたが、質素な生活を送っており(原文「蔬食布衣」。野菜を食べて布の服を着ること)、家には余財がありませんでした。公卿が共に朱穆の立節忠清(節操を立てて忠誠清廉なこと)を称えたため、桓帝は策詔を発して益州太守の官位を追贈しました。
朱穆の子朱野は若い頃から名節があり、出仕して官が河南尹に至りました。

かつて朱穆の父朱頡(朱暉の子。朱暉は章帝元和元年84年参照)が死んだ時、朱穆と諸儒が古義に基いて「貞宣先生」という諡号を贈りました。朱穆が死ぬと、蔡邕と門人がその業績から「文忠先生」という諡号を贈りました。
『朱楽何列伝』の注はこう書いています「諡号とは上(皇帝)が贈るものであり、下が作るものではない。だから顔顔回と閔損。孔子の弟子です)は至徳だったのに、諡号があるとは聞いたことがない。朱(朱穆と蔡邕)は衰世で臧否(善悪の評価)が立たない(衰退した世なので正しい評価が行われない。原文「衰世臧否不立」)と判断したのでこれを私議したのである(個人的に諡号について議論したのである)。」



 
次回に続きます。