東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1)
甲辰 164年
春正月庚寅、沛王・劉榮が死にました。
黄瓊を埋葬する時、四方遠近から名士六七千人が集まりました。
尚、『左周黄列伝』によると黄瓊の享年は七十九歳で、車騎将軍を追贈されました。
『資治通鑑』はここで徐穉、郭泰、仇香等の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。
東漢時代 郭泰 仇香(前)
東漢時代 郭泰 仇香(後)
夏四月丙寅、梁王・劉成が死にました。
劉成の諡号は夷王です。
以前、明帝の子・劉暢が梁王に封じられ(諡号は節王です)、その後、恭王・劉堅、懐王・劉匡と継承しましたが、劉匡の死後、子がいなかったため、順帝が劉匡の弟に当たる孝陽亭侯・劉成を梁王に封じました(順帝陽嘉四年・135年参照)。
五月己丑(十九日)、京師で雹が降りました。
秋七月辛卯、趙王・劉乾が死にました。
野王(地名)の山上に死龍がいました。
しかし卜陽と潘鴻の党衆はまだ強盛でした。度尚がこれを撃とうとしましたが、士卒は驕富(驕慢かつ富裕。戦利品を獲て富裕になったようです)で闘志がありません。度尚は進攻を緩めたら討伐できず(緩之則不戦)、兵に出撃を強要したら必ず逃亡することになると考え、こう宣言しました「卜陽と潘鴻は賊を為して十年になり、攻守に習熟している。今は兵が寡少なのでまだ容易に進むことができない。諸郡が発した兵がことごとく至るのを待ってから、力を併せてこれを攻めるべきだ。」
度尚は軍中に申令(号令。命令)して自由に射猟をさせました。
兵士は喜悦して大小とも(高官から士卒まで)陣を出ます。
そこで度尚は秘かに親しい賓客を使って自軍の営に火を放ちました。珍積(蓄積した珍宝)が全て焼き尽くされます。
狩猟に行った者達は皆、営に帰ると涕泣しました。
度尚は一人一人慰労して深く自分の責任を咎めてから(失火の責任は自分にあるとしました)、こう言いました「卜陽等の財宝は数世を富ませるに足りる。諸卿が力を併せないだけだ(諸卿が力を併せないから卜陽等の財宝を奪えないのだ。原文「諸卿但不并力耳」)。失った物は少ない。何を意に介すに足りるか(所亡少少,何足介意)。」
兵達は皆、憤踴(奮起)しました。
そこで度尚は兵達に命じて馬に餌を与えて早朝に食事をさせ(秣馬蓐食)、明旦(翌朝。日が昇る頃)、直接、卜陽等が駐屯している地に向かいました。
卜陽、潘鴻等は深山の中で堅固に守られていると考えていたため、防備を設けていません。
度尚の吏士は鋭気に乗じて卜陽等を破り、乱を鎮圧しました。
朝廷は度尚を右郷侯に封じました。
旧宅を祀ってから園廟で祭祀を行い、守令(太守・県令)以下にそれぞれ差をつけて賞賜を与えます。
湖陽・新野公主、魯哀王、寿張敬侯廟を祀ります。
『孝桓帝紀』の注によると、湖陽長公主と新野長公主は光武帝の姉、魯哀王(劉仲)は光武帝の兄、寿張敬侯・樊重は光武帝の舅で(「舅」は母の兄弟か妻の父です。樊重は光武帝の母の父なので、「舅」とするのは誤りです。光武帝の舅は樊重の子の寿張恭侯・樊宏になります)、全て光武帝時代に廟が建てられました。
本文に戻ります。
当時は公卿・貴戚の車騎が万を数え、費役(民力を費やす労役。または費用や労役)の徴発に際限がありませんでした。
そこで護駕従事・桂陽の人・胡騰(『資治通鑑』胡三省注によると、護駕従事は恐らく荊州刺史が派遣した従事で、車駕を守る者です)が上書しました「天子には外がなく、乗輿(皇帝の車)が行幸した場所は全て京師になります。臣は荊州刺史を司隸校尉に比し、臣自身を都官従事と同じくすることを請います(荊州刺史を司隸校尉とみなして、胡騰自身も中央の従事と同格になることを請います)。」
桓帝はこれを許可しました。
この後、桓帝に従う者達は皆、粛然とし、妄りに郡県を侵すことがなくなりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、荊州刺史は管轄の郡県において姦悪な者を察挙(監察・検挙)することはできましたが、扈従の臣(皇帝に従う臣)を察挙する権限はありませんでした。そこで、荊州刺史を司隸校尉とみなすことで、胡騰が司隸の官員と同格になり、中央から来た公卿・貴戚を察挙する権限を得ました。
太尉・楊秉が上書しました「太微には星が集まっており、この名を郎位と言います(『史記‧天官書』によると、太微宮五帝坐(五帝座。星座名)の後ろに十五星が集まっており、これを「郎位」といいました)。(郎とは宮中に)入ったら宿衛を奉じ(担当し)、(地方に)出たら百姓を牧す(管理する)ものです。忍び難い恩(近臣に対する拒否しがたい恩恵)を割くことで(割不忍之恩)、求欲の路(欲を求める路)を断つべきです。」
桓帝は朗に任命する詔の発布を止めました。
護羌校尉・段熲が当煎羌を撃って破りました。
十二月辛丑(初四日)、車駕(皇帝)が皇宮に還りました。
次回に続きます。