東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1)

今回は東漢桓帝延熹七年です。二回に分けます。
 
甲辰 164
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
春正月庚寅、沛王劉榮が死にました。
 
劉榮の諡号は幽王です。父は孝王劉広で、光武帝の子献王劉輔の家系です(順帝建康元年144年参照)
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉榮の死後、子の孝王劉琮が継ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
二月丙戌(中華書局『白話資治通鑑』は「丙戌」を恐らく誤りとしています)郷侯黄瓊(忠侯)が死にました。
 
黄瓊を埋葬する時、四方遠近から名士六七千人が集まりました。
『欽定四庫全書後漢記』は延熹七年(本年)二月に「太尉黄瓊が死んだ」、三月に「太常楊秉を太尉にした」と書いています。
しかし『後漢書桓帝紀』では、黄瓊は延熹四年161年)三月に太尉を罷免されており、同年四月に太常劉矩が太尉になり、延熹五年冬に劉矩が太尉を罷免されて太常楊秉が太尉になっています。
後漢書左周黄列伝(巻六十一)』でも黄瓊は延熹四年に太尉を罷免されています。
資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
尚、『左周黄列伝』によると黄瓊の享年は七十九歳で、車騎将軍を追贈されました。
 
資治通鑑』はここで徐穉、郭泰、仇香等の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。

東漢時代 郭泰 仇香(前)

東漢時代 郭泰 仇香(後)

 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月癸亥(中華書局『白話資治通鑑』は「癸亥」を恐らく誤りとしています)、鄠(県名)に隕石が落ちました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
夏四月丙寅、梁王劉成が死にました。
 
劉成の諡号は夷王です。
以前、明帝の子劉暢が梁王に封じられ(諡号は節王です)、その後、恭王劉堅、懐王劉匡と継承しましたが、劉匡の死後、子がいなかったため、順帝が劉匡の弟に当たる孝陽亭侯劉成を梁王に封じました(順帝陽嘉四年135年参照)
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉成の死後は子の敬王劉元が継ぎました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月己丑(十九日)、京師で雹が降りました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
秋七月辛卯、趙王劉乾が死にました。

趙王は光武帝の叔父に当たる劉良が封じられました(諡号は孝王です)。その後、節王劉盱(または「劉栩」)、頃王劉商、靖王劉宏と継承し、劉乾の代になりました。

後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉乾の諡号は恵王で、子の懐王劉豫が継ぎました。

劉豫の後は子の献王劉赦が継ぎますが、いつの事かははっきりしません。
劉赦は献帝建安十六年211年)に死に、子の劉珪が継ぎます。
劉珪は献帝建安十八年(213)に博陵王に遷され、九年後の魏王朝建国当初に崇徳侯になります。
『補後漢書年表(巻一)』は「劉赦」を「劉赧」、「劉珪」を「劉良」としています。

[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
野王(地名)の山上に死龍がいました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
荊州刺史度尚が諸蛮夷を募って艾県の賊桓帝延熹五年162年参照)を撃ち、大破しました。投降した者は数万人に上ります。
 
桂陽の宿賊(長期存在する賊)卜陽、潘鴻等は逃走して深山に入りました。度尚は数百里にわたって窮追し、三屯を破って多数の珍宝を獲ます。
しかし卜陽と潘鴻の党衆はまだ強盛でした。度尚がこれを撃とうとしましたが、士卒は驕富(驕慢かつ富裕。戦利品を獲て富裕になったようです)で闘志がありません。度尚は進攻を緩めたら討伐できず(緩之則不戦)、兵に出撃を強要したら必ず逃亡することになると考え、こう宣言しました「卜陽と潘鴻は賊を為して十年になり、攻守に習熟している。今は兵が寡少なのでまだ容易に進むことができない。諸郡が発した兵がことごとく至るのを待ってから、力を併せてこれを攻めるべきだ。」
度尚は軍中に申令(号令。命令)して自由に射猟をさせました。
兵士は喜悦して大小とも(高官から士卒まで)陣を出ます。
そこで度尚は秘かに親しい賓客を使って自軍の営に火を放ちました。珍積(蓄積した珍宝)が全て焼き尽くされます。
 
狩猟に行った者達は皆、営に帰ると涕泣しました。
度尚は一人一人慰労して深く自分の責任を咎めてから(失火の責任は自分にあるとしました)、こう言いました「卜陽等の財宝は数世を富ませるに足りる。諸卿が力を併せないだけだ(諸卿が力を併せないから卜陽等の財宝を奪えないのだ。原文「諸卿但不并力耳」)。失った物は少ない。何を意に介すに足りるか(所亡少少,何足介意)。」
兵達は皆、憤踴(奮起)しました。
そこで度尚は兵達に命じて馬に餌を与えて早朝に食事をさせ(秣馬蓐食)、明旦(翌朝。日が昇る頃)、直接、卜陽等が駐屯している地に向かいました。
 
卜陽、潘鴻等は深山の中で堅固に守られていると考えていたため、防備を設けていません。
度尚の吏士は鋭気に乗じて卜陽等を破り、乱を鎮圧しました。
 
こうして度尚が荊州刺史になって出兵してから三年(足掛け)で郡寇が全て平定されました。
後漢書桓帝紀』は本年に「荊州刺史度尚が零陵、桂陽の盗賊および蛮夷を撃ち、大破してこれを平定した」と書いています。
 
朝廷は度尚を右郷侯に封じました。

[] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月壬寅(初五日)桓帝が南巡しました。
 
庚申(二十三日)、章陵を行幸しました。
旧宅を祀ってから園廟で祭祀を行い、守令(太守県令)以下にそれぞれ差をつけて賞賜を与えます。
 
戊辰(『後漢書桓帝紀』『資治通鑑』とも月を書いていませんが、中華書局『白話資治通鑑』は「十一月初一日」としています)、雲夢を行幸し、漢水に臨み、還って新野を訪ねました。
湖陽新野公主、魯哀王、寿張敬侯廟を祀ります。
『孝桓帝紀』の注によると、湖陽長公主と新野長公主は光武帝の姉、魯哀王(劉仲)光武帝の兄、寿張敬侯樊重は光武帝の舅で(「舅」は母の兄弟か妻の父です。樊重は光武帝の母の父なので、「舅」とするのは誤りです。光武帝の舅は樊重の子の寿張恭樊宏になります)、全て光武帝時代に廟が建てられました。
 
本文に戻ります。
当時は公卿貴戚の車騎が万を数え、費役(民力を費やす労役。または費用や労役)の徴発に際限がありませんでした。
そこで護駕従事桂陽の人胡騰(『資治通鑑』胡三省注によると、護駕従事は恐らく荊州刺史が派遣した従事で、車駕を守る者です)が上書しました「天子には外がなく、乗輿(皇帝の車)行幸した場所は全て京師になります。臣は荊州刺史を司隸校尉に比し、臣自身を都官従事と同じくすることを請います荊州刺史を司隸校尉とみなして、胡騰自身も中央の従事と同格になることを請います)。」
桓帝はこれを許可しました。
この後、桓帝に従う者達は皆、粛然とし、妄りに郡県を侵すことがなくなりました。
資治通鑑』胡三省注によると、荊州刺史は管轄の郡県において姦悪な者を察挙(監察検挙)することはできましたが、扈従の臣(皇帝に従う臣)を察挙する権限はありませんでした。そこで、荊州刺史を司隸校尉とみなすことで、胡騰が司隸の官員と同格になり、中央から来た公卿貴戚を察挙する権限を得ました。
 
桓帝南陽に入る時、左右の者がそろって姦利(法から外れた利益)を求めたため、詔書を発して多くの者を郎に任命しました。
太尉楊秉が上書しました「太微には星が集まっており、この名を郎位と言います(『史記天官書』によると、太微宮五帝坐(五帝座。星座名)の後ろに十五星が集まっており、これを「郎位」といいました)(郎とは宮中に)入ったら宿衛を奉じ(担当し)(地方に)出たら百姓を牧す(管理する)ものです。忍び難い恩(近臣に対する拒否しがたい恩恵)を割くことで(割不忍之恩)、求欲の路(欲を求める路)を断つべきです。」
桓帝は朗に任命する詔の発布を止めました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
護羌校尉が当煎羌を撃って破りました。
 
[十一] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月辛丑(初四日)、車駕(皇帝)が皇宮に還りました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
中常侍汝陽侯唐衡と武原侯徐璜が死にました。
後漢書宦者列伝(巻七十八)』によると、唐衡には単超と同じように車騎将軍が贈られ(但し単超は生前に官位を拝命しています)、徐璜には銭布と冢塋(墳墓)の地が下賜されました。
 
 
 
次回に続きます。