東漢時代252 桓帝(三十) 寇栄 164年(2)

今回は東漢桓帝延熹七年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
侍中寇栄は寇恂(雲台二十八将の一人)の曾孫ですが、性格が矜潔(誇り高く廉潔なこと)で人との交流が少なかったため、権寵の者から嫌われていました。
寇栄の従兄の子は桓帝の妹益陽長公主を娶り、桓帝も寇栄の従孫女(兄弟姉妹の孫娘)後宮に入れていました。
しかし桓帝の左右の者がますます寇栄に嫉妬し、ついに共同して罪に陥れたため、寇栄と宗族は罷免されて故郡に帰されました。
資治通鑑』胡三省注によると、寇氏は本来、上谷昌平の人です。
 
寇栄が帰郷してからも、官吏が権重な者の意思に迎合して寇栄を侵犯したため(吏承望風旨持之浸急)、寇栄は禍から逃れられなくなることを恐れ、宮闕を訪ねて自ら冤罪を訴えることにしました。ところが寇栄が到着する前に、幽州刺史張敬が「勝手に辺郡から離れた(擅去辺)」という罪で寇栄を弾劾しました。
桓帝は詔を発して寇栄の逮捕を命じ、寇栄は逃走しました。
 
数年が経過して大赦がありましたが、寇栄の罪は除かれませんでした。
窮困が積もった寇栄はついに亡命しながら上書します「陛下は天を統べて物を理しており(天下の万物を治めており。原文「統天理物」)、民の父母となり、生歯以上の者(「生歯」は歯が生えることで、『資治通鑑』胡三省注によると、男児は八カ月、女児は七カ月を指します)が皆、徳沢を蒙っていますが、臣の兄弟だけは無辜(無罪)なのに専権の臣に批扺(誹謗排斥)され、青蠅の人(汚れた者。小人)が共に構会(計を用いて陥れること)するところとなり、陛下に慈母の仁を無くさせ、投杼の怒孔子の弟子曾参の母は自分の子が人を殺したという噂を信じたため、杼(機織の機具)を投げ捨てて駆け出しました。「投杼の怒」は噂や謡言を信じて抱いた怒りです)を発させています。しかも残諂の吏(暴虐で阿諛追従している官吏)が機網(禽獣を捕まえる罠や網)を張り(張設機網)、共に駆けて先を争い、その様子は仇敵を追いかけるようで(若赴仇敵)、刑罰は死没した者にも及んで墳墓を髠剔しており(受刑者の髪や髭を剃るように墓の樹木まで伐採しており。原文「罰及死没髠剔墳墓」)、厳朝(厳しい朝廷)から必ず濫罰(限度がない刑罰)を加えさせようと欲しています。そのため(臣は)天威に触突(衝突)することができず、自ら山林に逃走して、陛下が神聖の聴を発し(陛下が神聖な耳で聴き)、獨覩の明(恐らく誹謗に左右されない自分の正しい視線です)を啓き(開き)、可済の人(救いがある人)を救い、没溺の命(水没した命)を援けるのを待ちました。
ところが計らずも滞怒(積もった怒り)が春夏によって止むことはなく(春夏は万物が生長する時なので刑罰を控えるべきですが、寇栄に対してはそうなりませんでした)、淹恚(積もった怨み)も歳時によって緩むことがなかったので(不意滞怒不為春夏息,淹恚不為歳時怠)(陛下は)使者を郵駅の間に駆けさせ、遠近に布告し、その厳文は尅剝(酷薄。苛酷)で霜雪よりも痛く(厳しく)、臣を逐う者が人迹を窮め(あらゆる地域に足跡を残し。『資治通鑑』では「窮人途」ですが、『後漢書鄧寇列伝(巻十六)』では「窮人迹」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)、臣を追う者が車軌を極めており(あらゆる地域に車輪の跡を残しており)、楚が伍員伍子胥に賞金をかけて(楚購伍員)、漢が季布を求めた時でも、これを越えませんでした。
臣が罰に遭って以来、三赦再贖(三回の大赦と二回の贖罪の機会)があったので、無験の罪(証拠がない罪)は蠲除(免除)されるに足りています。しかし陛下は臣を憎んでますます深くなり、有司が臣を咎め(糾弾の)力を大きくしました(陛下はますます臣を憎み、官員はますます臣を糾弾する力を強めました。原文「疾臣愈深有司咎臣甫力」)(臣は)止まったら掃滅(掃討滅亡)に遭い、行動したら亡虜(逃亡する罪人)になり、とりあえず生きたとしても窮人になり(苟生則為窮人)、極まって死んだら冤鬼になります(極死則為冤鬼)。天は広いのに(臣を)覆うことができず、地は厚いのに(臣を)載せることができず、陸土を踏んでも沈淪(沈没)の憂があり、巖牆(岩の壁)から遠く離れていても鎮圧(圧迫)の患があります。もしも臣が元悪大憝(「元悪」も「大憝」も「大悪」の意味です)を犯したなら、原野に曝して刀踞(刑具)を備えるに足ります(刑具を準備して臣の死体を原野に曝すべきです。原文「足以陳原野備刀踞」)。陛下は臣が坐したところ(罪)を班布(公開)して衆論の疑を解くべきです。
臣は国門(京師の門)に入り、肺石の上に坐り、三槐九棘に臣の罪を平させたい(評議審理させたい)と思いました(『資治通鑑』胡三省注によると、周代は槐と棘の木を使って公卿の座を示しました。左九棘(王から向かって左の九棘)は孤卿大夫の席で、右九棘は公男爵の席です。三槐に面すのは(面三槐)三公です。また、左に嘉石を置いて罷民(法に従わない民)を坐らせ、そこで反省させました。右には肺石を置いて窮民が訴える場所にしました。肺石は赤い石です)。しかし閶闔(皇宮の門)は九重で陷穽が歩設されており(一歩ごとに陥穽が設けられており)、趾(足)を挙げたら罘罝(網)に触れ、行動したら羅網(網)に掛かってしまうので(動行絓羅網)、万乗(皇帝)の前に至る縁(術)がなく、永く見信の期(信用される時、機会)がありませんでした。悲しいことです(悲夫)(今後)久しく生きたとしても何に頼ればいいのでしょうか(久生亦復何聊)
忠臣とは殺身(身を殺すこと)によって君怒を解き、孝子とは殞命(命を落とすこと)によって親怨を収めるものです(寧親怨)。だから大舜は塗廩(倉庫の壁塗り、修築)と浚井(井戸掘り)の難を避けず(舜の父瞽叟は舜を殺すために倉庫を修築させ、舜が屋根に上った時、下から火をつけました。また舜に井戸を掘らせ、舜が深く入った時に上から土をかぶせました)、申生は姫氏の讒邪の謗を辞しませんでした(晋の驪姫が太子申生を讒言したましたが、申生は弁明せず自殺しました)。臣がこの義(道理)を忘れ、自斃(自殺)せずに明朝の忿(怒り)を解かないでいられるでしょうか。この身をもって譴責を塞ぐことを乞い、陛下が兄弟の死命を赦して(原文「陛下兄弟死命」。「」は「赦免」の意味です)、臣の一門に頗る遺類があるようさせ(臣の一門に少なからず後嗣を残させ)、そうすることで陛下の寛饒の恵(寛恕・寛大な恩恵)を崇める(充たす。増長させる)ことを願います。死に先立って陳情し、章(上奏文)に臨んで血涙を流します(先死陳情臨章泣血)。」
 
桓帝は上奏文を読んでますます怒り、寇栄を誅殺しました。
寇氏はここから衰廃します。
 
袁宏の『後漢紀』はこの出来事を延熹元年158年)に書いています。
後漢書鄧寇列伝』では「延熹延熹年間)」としており、「三赦再贖があった」とも書いていますが、詳しい年はわかりません。桓帝延熹九年166年)に襄楷が上書して梁冀、孫寿と寇栄、鄧万世の誅に触れているため、『資治通鑑』は上書より前の本年延熹七年)にこの事を書いています。鄧万世は延熹八年(翌年)に殺されます(以上、胡三省注参照)
 
また、『資治通鑑』は最後の部分を『後漢書鄧寇列伝』の「寇氏由是衰廃」に従っていますが、『欽定四庫全書後漢記』では「帝は上奏に取り合わず、寇氏を滅ぼした(帝不省。遂滅寇氏)」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。