東漢時代254 桓帝(三十二) 劉瑜 165年(2)

今回は東漢桓帝延熹八年の続きです。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
桓帝は内寵(寵妃)が多く、宮女の数が五六千人に上り、駆役従使(使用人従者)はその倍もいました。
鄧皇后は尊位に頼って驕忌(驕慢で嫉妬深いこと)だったため、桓帝が寵愛した郭貴人と互いに譖訴(讒言誹謗)しました。
 
(二月)癸亥(二十七日)桓帝が皇后鄧氏を廃して暴室に送りました。
資治通鑑』胡三省注によると、暴室は掖庭内にあり、丞が一人いました。宮中の婦人で疾病がある者、皇后・貴人で罪を犯した者が入れられます。
 
鄧氏は憂死し、河南尹鄧万世(『孝桓帝紀』の注によると、鄧皇后の叔父です)、虎賁中郎将鄧会(『孝桓帝紀』の注によると、鄧皇后の兄の子です)が獄に下されて誅殺されました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
護羌校尉段熲が罕姐羌(『孝桓帝紀』では「罕姐羌」ですが、『後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』では「勒姐羌」です。『資治通鑑』は「本紀」に従っています)を撃って破りました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月辛巳(十六日)、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
宛陵の大姓(大族)羊元群が北海郡で罷免されました(原文「羊元群罷北海郡」。恐らく北海太守の職を罷免されたのだと思います)
羊元群は貪婪で限度が無かったため(臧汚狼籍)、郡舍の溷軒(厠)にあった奇巧(精巧で珍しい物)まで車に載せて帰りました。
 
河南尹李膺(宛陵は河南尹に属します)が羊元群の罪を問うように上書しました。
しかし羊元群が宦官に賄賂を贈ったため、李膺が逆に罪に坐します。
 
単超の弟単遷が山陽太守になりましたが、罪を犯して獄に繋がれました。廷尉馮緄が考致(拷問)して単遷を死に至らせます。
すると、中官(宦官)が互いに徒党を組み、共に飛章(緊急の上奏文、または匿名の上奏文)で馮緄を誣告して罪に陥れました。
 
中常侍蘇康と管霸が天下の良田美業(肥沃な農地)を包囲占拠しましたが、州郡は彼等を譴責できませんでした。
しかし大司農劉祐が該当する地に書を送り、科品(法制)に則って没収しました。
 
これらの事に桓帝が激怒し、劉祐と李膺、馮緄を共に左校に送って労役させました(輸作左校)
 
[十一] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月甲寅(十九日)、安陵(恵帝陵)の園寝で火災がありました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
丁巳(二十二日)桓帝が詔を発し、郡国の諸淫祀(礼制に合わない祠廟。「諸淫祀」は『資治通鑑』の記述で、『孝桓帝紀』では「諸房祀」です。「諸祠堂」の意味です)を破壊しました。
但し、特別に雒陽の王渙(和帝元興元年105年参照)と密県の卓茂光武帝建武元年25年参照。卓茂は南陽宛の人ですが、かつて密令を勤めました)の二祠は留めました。
 
[十三] 『後漢書桓帝紀』からです。
済陰、東郡、済北で河水(黄河)が清みました(澄みました)
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』からです。
五月壬申(初八日)、太山(泰山)都尉の官を廃しました。
 
桓帝永寿元年155年に太山(泰山)と琅邪に都尉の官を置きましたが、琅邪都尉は延熹五年162年)に廃され、本年、太山都尉も廃されました。
 
[十五] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(二十二日)、太尉楊秉が死にました。
 
楊秉の為人は清白寡欲で、かつて「私には『三不惑(三つの惑わされないこと)』がある。酒財である」と言いました。
 
楊秉が死んでから、賢良として楊秉に推挙された広陵の人劉瑜が京師に来て上書しました「中官(宦官)が不当に肩を並べて土地を裂き(不当比肩裂土)、競って胤嗣(後嗣)を立て、継体(位を継ぐこと)して爵を伝えています(順帝陽嘉四年135年に宦官が養子に世襲させることを許可しました)
また、嬖女(寵愛する妃妾)が充積しており、(何もせず食事だけすること)して皇宮を空にし食空宮)、生を傷つけて国財を費やしています(原文「傷生費国」。「傷生」に関して『後漢書杜欒劉李劉謝列伝(巻五十七)』は「(嬖女が過多になったら)精神を疲労分散させ、六疾(各種の病)を生み育てる(労散精神生長六疾)」と書いています)
また、第舍(邸宅)が増加して奇巧を極め尽くし(窮極奇巧)、山を掘って石を穿ち(掘山攻石)、厳刑を用いて(民に労役を)促しています。しかも州郡の官府がそれぞれ自ら考事(事件を審査追及すること。厳刑を自由に使っているという意味です)し、姦情や賕賂(賄賂)が全て吏餌(官吏を誘惑する餌)になっています。そのため民が愁いて鬱結(憂鬱になること)し、起ちあがって賊党に入っています。その都度、官が兵を興してその罪を誅討しており、貧困の民においては、ある者は自分の首級を売って酬賞を求め、父兄が互いに相手に代わって自分の身を害し(相代残身)、妻子が(家族の)分裂を目撃しています(妻孥相視分裂)
また、陛下が近習(近臣)の家への微行(おしのび)や宦者の舍(家)への私幸(個人的な行幸)を好んでいるため、賓客が市買して道路で熏灼し(原文「賓客市買熏灼道路」。「市買」は「物を買うこと」、「熏灼」は「焼く」「炙る」ですが「威勢が人を圧する」という意味もあります。近臣や宦官の賓客が皇帝をもてなすために市で物を買い、権勢によって民を圧迫したのだと思われます)、これが原因で暴縦(暴虐放縦)が容認できないほどになっています(無所不容)
陛下が諫道を開いてそれを広くし、博く(広く)前古を観察し、佞邪の人を遠ざけ、鄭衛の声(淫蕩な音楽)を放棄することを願います。そうすれば政が和平を至らせ、徳が祥風に感じさせるでしょう(政治が正しくなって和平が至り、徳に感じて吉祥の風が吹くようになるでしょう)。」
 
桓帝は詔を発して特別に劉瑜を召し、災咎の徵(兆し)について問いました。
執政者(政治を行う大臣官員)は劉瑜に曖昧な回答をさせようとして(原文「執政者欲令瑜依違其辞」「依違」は「曖昧」です)、改めて他の事を策問しました(執政者は劉瑜の直言によって悪事が露見することを恐れたため、皇帝の問いから外れた無難な回答をさせようとしました)
しかし劉瑜は再び心を尽くして八千余言で回答し、その内容は前回よりも激切でした。
桓帝は劉瑜を議郎に任命しました。
 
[十六] 『後漢書桓帝紀』からです。
丙辰(恐らく誤りです)、緱氏の地が裂けました。
 
 
 
次回に続きます。