東漢時代254 桓帝(三十二) 劉瑜 165年(2)
『資治通鑑』胡三省注によると、暴室は掖庭内にあり、丞が一人いました。宮中の婦人で疾病がある者、皇后・貴人で罪を犯した者が入れられます。
宛陵の大姓(大族)・羊元群が北海郡で罷免されました(原文「羊元群罷北海郡」。恐らく北海太守の職を罷免されたのだと思います)。
羊元群は貪婪で限度が無かったため(臧汚狼籍)、郡舍の溷軒(厠)にあった奇巧(精巧で珍しい物)まで車に載せて帰りました。
しかし羊元群が宦官に賄賂を贈ったため、李膺が逆に罪に坐します。
単超の弟・単遷が山陽太守になりましたが、罪を犯して獄に繋がれました。廷尉・馮緄が考致(拷問)して単遷を死に至らせます。
すると、中官(宦官)が互いに徒党を組み、共に飛章(緊急の上奏文、または匿名の上奏文)で馮緄を誣告して罪に陥れました。
しかし大司農・劉祐が該当する地に書を送り、科品(法制)に則って没収しました。
夏四月甲寅(十九日)、安陵(恵帝陵)の園寝で火災がありました。
五月壬申(初八日)、太山(泰山)都尉の官を廃しました。
丙戌(二十二日)、太尉・楊秉が死にました。
楊秉が死んでから、賢良として楊秉に推挙された広陵の人・劉瑜が京師に来て上書しました「中官(宦官)が不当に肩を並べて土地を裂き(不当比肩裂土)、競って胤嗣(後嗣)を立て、継体(位を継ぐこと)して爵を伝えています(順帝陽嘉四年・135年に宦官が養子に世襲させることを許可しました)。
また、嬖女(寵愛する妃妾)が充積しており、宂食(何もせず食事だけすること)して皇宮を空にし(宂食空宮)、生を傷つけて国財を費やしています(原文「傷生費国」。「傷生」に関して『後漢書・杜欒劉李劉謝列伝(巻五十七)』は「(嬖女が過多になったら)精神を疲労分散させ、六疾(各種の病)を生み育てる(労散精神生長六疾)」と書いています)。
また、第舍(邸宅)が増加して奇巧を極め尽くし(窮極奇巧)、山を掘って石を穿ち(掘山攻石)、厳刑を用いて(民に労役を)促しています。しかも州郡の官府がそれぞれ自ら考事(事件を審査・追及すること。厳刑を自由に使っているという意味です)し、姦情や賕賂(賄賂)が全て吏餌(官吏を誘惑する餌)になっています。そのため民が愁いて鬱結(憂鬱になること)し、起ちあがって賊党に入っています。その都度、官が兵を興してその罪を誅討しており、貧困の民においては、ある者は自分の首級を売って酬賞を求め、父兄が互いに相手に代わって自分の身を害し(相代残身)、妻子が(家族の)分裂を目撃しています(妻孥相視分裂)。
また、陛下が近習(近臣)の家への微行(おしのび)や宦者の舍(家)への私幸(個人的な行幸)を好んでいるため、賓客が市買して道路で熏灼し(原文「賓客市買熏灼道路」。「市買」は「物を買うこと」、「熏灼」は「焼く」「炙る」ですが「威勢が人を圧する」という意味もあります。近臣や宦官の賓客が皇帝をもてなすために市で物を買い、権勢によって民を圧迫したのだと思われます)、これが原因で暴縦(暴虐放縦)が容認できないほどになっています(無所不容)。
陛下が諫道を開いてそれを広くし、博く(広く)前古を観察し、佞邪の人を遠ざけ、鄭・衛の声(淫蕩な音楽)を放棄することを願います。そうすれば政が和平を至らせ、徳が祥風に感じさせるでしょう(政治が正しくなって和平が至り、徳に感じて吉祥の風が吹くようになるでしょう)。」
執政者(政治を行う大臣・官員)は劉瑜に曖昧な回答をさせようとして(原文「執政者欲令瑜依違其辞」「依違」は「曖昧」です)、改めて他の事を策問しました(執政者は劉瑜の直言によって悪事が露見することを恐れたため、皇帝の問いから外れた無難な回答をさせようとしました)。
しかし劉瑜は再び心を尽くして八千余言で回答し、その内容は前回よりも激切でした。
桓帝は劉瑜を議郎に任命しました。
丙辰(恐らく誤りです)、緱氏の地が裂けました。
次回に続きます。