東漢時代255 桓帝(三十三) 度尚の功罪 165年(3)

今回も東漢桓帝延熹八年の続きです。
 
[十七] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
荊州の兵朱蓋等が叛して桂陽賊胡蘭等と共にまた桂陽を攻撃しました。
桂陽太守任胤は城を棄てて逃走します。
賊衆は数万人に上りました。
 
朱蓋等は桂陽の郡県を攻略してから転じて零陵を侵しました。太守下邳の人陳球が固守して朱蓋等を防ぎます。
零陵は地形が低くて湿度が高く、木を組んで城壁にしていました。
郡中が惶恐し、掾史が陳球に家族を外に送って避難させるように勧めましたが、陳球は怒ってこう言いました「太守は国の虎符を分けて一邦(一郡)の任を受けている。どうして妻孥(妻子)を顧みて国威を損なうことができるか(豈顧妻孥而沮国威乎)!再び(同じことを)言う者は斬る!」
 
陳球は大木に弦を張って弓を作り、矛に羽毛をつけて矢を作り(羽矛為矢)、機械を引いて(矛で作った矢を)放ちました。多くの者が殺傷されます。
 
賊が激流を城に注ぎました。しかし陳球はすぐに城内で地形を利用して逆に川を決壊させ、賊を水没させました。
陳球が十余日にわたって抵抗したため、賊は零陵を攻略できませんでした。
 
この頃、度尚が招かれて京師に還りました(『後漢書張法滕馮度楊列伝(巻三十八)』によると、荊州刺史度尚は荊州の乱を平定してから(前年、桓帝延熹七年164年参照)右郷侯に封じられて桂陽太守に遷され、本年、京師に招かれていました)
桓帝は詔によって度尚を中郎将に任命し、歩騎二万余人を率いて陳球を助けさせました。
度尚は諸郡の兵を動員して勢力を合わせ、賊を討撃して大破しました。胡蘭等の首三千余級を斬ります。
後漢書桓帝紀』は「(朝廷が)中郎将度尚と長沙太守抗徐等を送って胡蘭、朱蓋を撃ち、大破して斬った」と書いています。
『孝桓帝紀』の注によると、抗徐の字は伯徐で丹陽の人です。若い頃に郡の佐史になりました。膽智(度胸と智慧策略があったため、三府が「抗徐には将率(将領)の任(能力)がある」と上奏し、特別に長沙太守に抜擢されました。
抗氏は衛の大夫三抗(三伉氏)の後代で、漢代には抗喜がいて漢中太守になりました。
 
本文に戻ります。
朝廷は度尚を再び荊州刺史に任命しました。
 
これ以前に蒼梧太守張敍が賊に捕えられていました。
桂陽太守任胤も恐れを抱いて敵に背を向けたため(上述。原文「背敵畏儒」。「儒」は恐らく「懦(軟弱無能)」です)、張敍と共に京師に召還されて棄市に処されました。
 
胡蘭の余党が南の蒼梧に走りましたが、交趾刺史張磐が撃破しました。賊は再び荊州界内に入ります。
度尚は自分が罪を負うことを懼れました(群賊を完全に滅ぼせなかった罪です)
そこで偽って蒼梧の賊が荊州界内に入ったと上書しました。
朝廷は張磐を召還して廷尉に下しました。
 
辞状(供述。証拠)が正される前に(審理される前に)大赦があったため張磐は罪を赦されました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「張磐が大赦に遇って赦されたが、いつの大赦かは分からない」と書いています。これ以前の大赦延熹六年(163)三月で、既に二年が経っており、これ以後は永康元年(167)六月で二年も後になります。
 
張磐は大赦に遇いましたが、獄から出ようとせず、逆に械節(刑具の接合部)を更に強く持ちました(方更牢持械節)
獄吏が張磐に問いました「天恩が曠然(広大な様子)としているのに君は出ようとしない。それが相応しいことか(可乎)?」
張磐が言いました「磐()は方伯(地方の長官。刺史)の位に備わったのに、度尚によって冤罪を着せられ(為尚所枉)、牢獄で罪を受けた。事には虚実があり、法には是非があるものだ。磐()は実に不辜(無罪)であり、赦大赦)(私の罪を)除いたのではない。もしもとりあえず(刑から)免れたことで(冤罪を)忍んだら、永く侵辱(凌辱)の恥を受け(如忍以苟免,永受侵辱之恥)、生きている間は悪吏となり、死んでからは敝鬼(悪鬼)になる。伝車で度尚を廷尉に至らすことを乞う。面前で曲直を問い比べれば真偽を明らかにするに足りる(面対曲直足明真偽)。度尚を徵さないなら(召還しないなら)、磐()は牢檻に骨を埋め、虚出して望塵受枉することはない(原文「終不虚出望塵受枉」。「虚」は形式的なこと、中身がないことなので、ここでは「罪を被ったまま形式的に出所する」という意味です。「望塵」はよくわかりません。直訳したら「砂塵を望む」です。「俗世に出る」「出所する」という意味かもしれません。「受枉」は「冤罪を受ける」です。全体では、「冤罪を被ったまま形式的に獄から出るつもりはない」という意味です)。」
廷尉がこの内容を桓帝に報告しました。
桓帝は詔を発して度尚を招き、廷尉に送ります。
度尚は辞に窮して罪を受けましたが、先に功績を立てていたため赦されました。
 

後漢書張法滕馮度楊列伝』によると、張磐は字を子石といい、丹陽の人です。清白で名が知られており、最後は廬江太守になりました。
度尚はこの後、遼東太守になりました。

数カ月後、鮮卑が兵を率いて度尚を攻めましたが、度尚が鮮卑と戦って破ったため、戎狄が畏れ憚りました。
延熹九年(翌年)、度尚は五十歳で官に就いたまま死にました。
 
 
 
次回に続きます。