東漢時代256 桓帝(三十四) 王暢 165年(4)

今回も東漢桓帝延熹八年の続きです。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
閏月甲午(中華書局『白話資治通鑑』は「閏月初一日」としています。恐らく「閏五月」です)、南宮朔平署で火災がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、「朔平署」は「朔平司馬署」を指します。朔平司馬は北宮北門を管理しました。『後漢書百官志二』に「宮掖門後宮の門)は各門に司馬が一人おり、(秩は)比千石」「衛尉に属す」とあり、注が「(朔平司馬の)員吏は五人、衛士は百十七人」と書いています。
 
後漢書桓帝紀』は「南宮、長秋、和歓殿の後ろにある鉤楯、掖庭、朔平の署(官署)で火災があった」としています。
「長秋」は長秋宮です。
後漢書百官志三』によると、掖庭令は一人で秩六百石です。宦者が担当し、後宮の貴人采女の事を管理しました。
鉤盾令も一人で秩六百石です。宦者が担当し、周辺の池や苑囿、遊観の地を管理しました。
どちらも少府に属します。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
段熲が西羌を撃破し、兵を進めて窮追しました。山谷の間で転々とし、春から秋まで戦わない日はありません。
その結果、虜(西羌)が敗散しました。
漢軍は二万三千級を斬首し、生口(捕虜)数万人を得ました。投降した者も一万余落(「落」は通常、「部落・村落」の意味ですが、ここでは数が大きいので「戸」の意味かもしれません)に上りました。
朝廷は段熲を都郷侯に封じました。
 
後漢書桓帝紀』は「六月、段熲が湟中で当煎羌を撃ち、これを大破した」と書いており、『資治通鑑』と若干異なります。
後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』に詳しく書かれています。以下、『皇甫張段列伝』からです、
春、段熲が勒姐種(または「罕姐羌」)を撃って四百余級を斬首し、二千余人を降しました(上述)
夏、段熲が進軍して湟中で当煎種()を撃ちましたが、段熲の兵が敗れて三日間包囲されました。
段熲は隠士樊志張の策を用いて夜の間に秘かに兵を出しました。(包囲の外に出た兵が)戦鼓を敲きながら引き返して戦い(鳴鼓還戦)(羌人を)大破します。首虜(首級。または首級と捕虜)は数千人に上りました。
その後、段熲は窮追して山谷の間を転々とし、春から秋まで戦わない日がありませんでした。

(羌人)はついに飢困して敗散し、北に向かって武威一帯を侵しました(湟中は金城郡に属します。武威郡は金城郡の北にあります)
段熲が西羌を破った戦いでは、合わせて二万三千級を斬首し、生口数万人、馬牛羊八百万頭を獲ました。投降した者は一万余落に上ります。

朝廷は段熲を都郷侯に封じ、邑を五百戸にしました。
 
[二十] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、太中大夫陳蕃を太尉にしました。
陳蕃は太尉の位を太常胡広、議郎王暢、弛刑徒(刑具を外された囚人)李膺に譲ろうとしましたが、桓帝が許しませんでした。
 
王暢は王龔の子で(王龔は安帝と順帝に仕えて三公になりました)、かつて南陽太守を勤めました。
王暢は南陽に貴戚豪族が多いことを嫌い、着任して車から下りると威猛を奮わせました。大姓(豪族)が罪を犯したら、吏(官吏)を送って家屋を倒し、樹木を伐採し、井戸を塞ぎ、竈を壊して平らにしたこと(発屋伐樹,堙井夷竈)もありました。
功曹張敞が文書を提出して諫めました「文翁、召父、卓茂の徒(文翁は西漢の官吏です。『漢書循吏伝(巻八十九)』に記述があります。召父は召信臣です。西漢元帝竟寧元年33年に書きました。卓茂は光武帝建武元年25年に書きました)は皆、温厚によって政を行い、後世に名が伝えられました(流聞後世)。発屋伐樹(家屋を倒して樹木を伐ること)は厳烈に近いので、懲悪を欲していたとしても遠くに聞かせるのは困難です(「遠く離れた京師に懲悪のためだと知らせるのは困難です」。または「遠く後世に名を留めるのは困難です」。原文「難以聞遠」)。この郡は旧都となり光武帝が挙兵してから、更始政権が南陽郡の宛に都を置きました)、侯甸の国でもあり(侯服と甸服です。京師から千里以内の地を指します)、園廟は章陵から出て光武帝の父である南頓君劉欽から数えて四代前の先祖は章陵に園陵があります)三后は新野から生まれ(『資治通鑑』胡三省注によると、光烈陰皇后および和帝の陰皇后と鄧皇后は新野の人です)、中興以来、功臣将相が世を継いで興隆しました。(私の)愚見によるなら、急いで刑を用いるよりも(原文「懇懇用刑」。「懇懇」は急ぐ様子です)恩を行った方が良く、急いで姦悪を探すよりも(原文「孳孳求姦」。「孳孳」も急ぐ様子です)賢人を礼遇する方が優っています(未若礼賢)。舜は皋陶を挙げたので不仁の者が遠ざかりました。化人(人の教化)は徳にあり、刑を用いることにはありません。」
王暢はこの言葉に深く納得し、寛大な政治を推進して教化を大いに行き届かせるようにしました。
 
[二十一] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月戊辰(初六日)、初めて郡国に命じて、田を所有する者に「畝(面積の単位)」に応じて税金を納めさせました(畝斂税銭)
 
『孝桓帝紀』の注は「一畝十銭」と解説しています。しかし、『後漢書宦者列伝(巻七十八)』に「張讓、趙忠等が帝霊帝を説得し、天下の田から一畝当たり税十銭を集めさせて(令斂天下田畝税十銭)宮室を修築した」とあるため、『資治通鑑』胡三省注は「一畝十銭はこの時桓帝の時)ではない」と書いています。
漢代の田租の基本は「三十税一(収入の三十分の一を納める税制)」でしたが(時代によって「十五税一」等も行われました)、ここから畝を測って税を納めさせることになりました。
 
[二十二] 『後漢書孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月丁未(十五日)、京師で地震がありました。
 
[二十三] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、司空周景を罷免しました。
太常劉茂を司空にしました。
 
劉茂は劉愷の子です。劉愷は封国(居巣侯)を弟の劉憲に譲ったことで名が知られ(和帝永元十年98年参照)、安帝時代に三公になりました。
『孝桓帝紀』の注によると、劉茂の字は叔盛で彭城の人です。
 
[二十四] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
竇融(建国の功臣)の玄孫に当たる郎中竇武に娘がおり、貴人になりました。『後漢書皇后紀下』によると竇妙といいます。
 
当時、桓帝采女田聖を寵愛しており、皇后に立てようとしました。
しかし司隸校尉応奉が上書して諫めました「母后の重(重要性)は興廃の原因となります。漢は飛燕を立てて胤祀が泯絶(絶滅)しました。『関雎(『詩経』の第一首で、君子が淑女を想う詩です)』が求めたことを思い、五禁が忌(禁忌)とすることを遠ざけるべきです。」
 
資治通鑑』胡三省注が「五禁」について解説しています。婦人には「五不娶(娶ってはならない五種類の婦人)」があり、これを「五禁」といいました。
一、「母を失った長女(この「長女」は恐らく「ある程度、年をとった女」を意味します)は娶ってはならない(喪婦之長女不娶)」。命(教育)を受けていないからです。
二、「家族親戚に悪疾(病)がある者は娶ってはならない(世有悪疾不娶)」。天に棄てられた者だからです。
三、「家族親戚に受刑者がいる者は娶ってはならない(世有刑人不娶)。」人に棄てられた者だからです。
四、「乱家(倫理が乱れた家庭)の女()は娶ってはならない(乱家女不娶)。」不正(正しくないこと。正当ではないこと)に属すからです。
五、「逆家(正道から外れた家)の女()は娶ってはならない(逆家女不娶)。」人倫が廃れているからです。
 
太尉陳蕃も田氏が卑微(身分が低いこと)で竇氏の宗族が良家だったため、田氏を皇后に立てることに強く反対しました。
 
辛巳(二十日)桓帝がやむなく竇貴人を皇后に立てました。
竇武を特進城門校尉とし、槐里侯に封じます。
 
 
 
次回に続きます。