東漢時代256 桓帝(三十四) 王暢 165年(4)
『資治通鑑』胡三省注によると、「朔平署」は「朔平司馬署」を指します。朔平司馬は北宮北門を管理しました。『後漢書・百官志二』に「宮掖門(後宮の門)は各門に司馬が一人おり、(秩は)比千石」「衛尉に属す」とあり、注が「(朔平司馬の)員吏は五人、衛士は百十七人」と書いています。
「長秋」は長秋宮です。
鉤盾令も一人で秩六百石です。宦者が担当し、周辺の池や苑囿、遊観の地を管理しました。
どちらも少府に属します。
段熲が西羌を撃破し、兵を進めて窮追しました。山谷の間で転々とし、春から秋まで戦わない日はありません。
その結果、虜(西羌)が敗散しました。
漢軍は二万三千級を斬首し、生口(捕虜)数万人を得ました。投降した者も一万余落(「落」は通常、「部落・村落」の意味ですが、ここでは数が大きいので「戸」の意味かもしれません)に上りました。
朝廷は段熲を都郷侯に封じました。
春、段熲が勒姐種(または「罕姐羌」)を撃って四百余級を斬首し、二千余人を降しました(上述)。
夏、段熲が進軍して湟中で当煎種(族)を撃ちましたが、段熲の兵が敗れて三日間包囲されました。
段熲は隠士・樊志張の策を用いて夜の間に秘かに兵を出しました。(包囲の外に出た兵が)戦鼓を敲きながら引き返して戦い(鳴鼓還戦)、(羌人を)大破します。首虜(首級。または首級と捕虜)は数千人に上りました。
その後、段熲は窮追して山谷の間を転々とし、春から秋まで戦わない日がありませんでした。
虜(羌人)はついに飢困して敗散し、北に向かって武威一帯を侵しました(湟中は金城郡に属します。武威郡は金城郡の北にあります)。
段熲が西羌を破った戦いでは、合わせて二万三千級を斬首し、生口数万人、馬牛羊八百万頭を獲ました。投降した者は一万余落に上ります。
朝廷は段熲を都郷侯に封じ、邑を五百戸にしました。
秋七月、太中大夫・陳蕃を太尉にしました。
王暢は南陽に貴戚豪族が多いことを嫌い、着任して車から下りると威猛を奮わせました。大姓(豪族)が罪を犯したら、吏(官吏)を送って家屋を倒し、樹木を伐採し、井戸を塞ぎ、竈を壊して平らにしたこと(発屋伐樹,堙井夷竈)もありました。
功曹・張敞が文書を提出して諫めました「文翁、召父、卓茂の徒(文翁は西漢の官吏です。『漢書・循吏伝(巻八十九)』に記述があります。召父は召信臣です。西漢元帝竟寧元年・前33年に書きました。卓茂は光武帝建武元年・25年に書きました)は皆、温厚によって政を行い、後世に名が伝えられました(流聞後世)。発屋伐樹(家屋を倒して樹木を伐ること)は厳烈に近いので、懲悪を欲していたとしても遠くに聞かせるのは困難です(「遠く離れた京師に懲悪のためだと知らせるのは困難です」。または「遠く後世に名を留めるのは困難です」。原文「難以聞遠」)。この郡は旧都となり(光武帝が挙兵してから、更始政権が南陽郡の宛に都を置きました)、侯甸の国でもあり(侯服と甸服です。京師から千里以内の地を指します)、園廟は章陵から出て(光武帝の父である南頓君・劉欽から数えて四代前の先祖は章陵に園陵があります)、三后は新野から生まれ(『資治通鑑』胡三省注によると、光烈陰皇后および和帝の陰皇后と鄧皇后は新野の人です)、中興以来、功臣将相が世を継いで興隆しました。(私の)愚見によるなら、急いで刑を用いるよりも(原文「懇懇用刑」。「懇懇」は急ぐ様子です)恩を行った方が良く、急いで姦悪を探すよりも(原文「孳孳求姦」。「孳孳」も急ぐ様子です)賢人を礼遇する方が優っています(未若礼賢)。舜は皋陶を挙げたので不仁の者が遠ざかりました。化人(人の教化)は徳にあり、刑を用いることにはありません。」
王暢はこの言葉に深く納得し、寛大な政治を推進して教化を大いに行き届かせるようにしました。
八月戊辰(初六日)、初めて郡国に命じて、田を所有する者に「畝(面積の単位)」に応じて税金を納めさせました(畝斂税銭)。
『孝桓帝紀』の注は「一畝十銭」と解説しています。しかし、『後漢書・宦者列伝(巻七十八)』に「張讓、趙忠等が帝(霊帝)を説得し、天下の田から一畝当たり税十銭を集めさせて(令斂天下田畝税十銭)宮室を修築した」とあるため、『資治通鑑』胡三省注は「一畝十銭はこの時(桓帝の時)ではない」と書いています。
漢代の田租の基本は「三十税一(収入の三十分の一を納める税制)」でしたが(時代によって「十五税一」等も行われました)、ここから畝を測って税を納めさせることになりました。
冬十月、司空・周景を罷免しました。
太常・劉茂を司空にしました。
劉茂は劉愷の子です。劉愷は封国(居巣侯)を弟の劉憲に譲ったことで名が知られ(和帝永元十年・98年参照)、安帝時代に三公になりました。
『孝桓帝紀』の注によると、劉茂の字は叔盛で彭城の人です。
しかし司隸校尉・応奉が上書して諫めました「母后の重(重要性)は興廃の原因となります。漢は飛燕を立てて胤祀が泯絶(絶滅)しました。『関雎(『詩経』の第一首で、君子が淑女を想う詩です)』が求めたことを思い、五禁が忌(禁忌)とすることを遠ざけるべきです。」
一、「母を失った長女(この「長女」は恐らく「ある程度、年をとった女」を意味します)は娶ってはならない(喪婦之長女不娶)」。命(教育)を受けていないからです。
二、「家族親戚に悪疾(病)がある者は娶ってはならない(世有悪疾不娶)」。天に棄てられた者だからです。
三、「家族親戚に受刑者がいる者は娶ってはならない(世有刑人不娶)。」人に棄てられた者だからです。
四、「乱家(倫理が乱れた家庭)の女(娘)は娶ってはならない(乱家女不娶)。」不正(正しくないこと。正当ではないこと)に属すからです。
五、「逆家(正道から外れた家)の女(娘)は娶ってはならない(逆家女不娶)。」人倫が廃れているからです。
太尉・陳蕃も田氏が卑微(身分が低いこと)で竇氏の宗族が良家だったため、田氏を皇后に立てることに強く反対しました。
竇武を特進・城門校尉とし、槐里侯に封じます。
次回に続きます。