東漢時代257 桓帝(三十五) 登竜門 165年(5)
勃海の妖賊・蓋登等が「太上皇帝」を称しました。玉印、珪(玉器)、璧、鉄券(皇帝が臣下に発布する証明書のようなもの。功臣を優待したり死罪を免除する等の約束や誓詞が書かれます)を所有し、官員を配置します(相署置)。
しかし全て誅に伏しました。
『孝桓帝紀』の注によると、蓋登等は五つの玉印を持っており、全て白石のようでした。そのうち二つには『皇帝信璽』と『皇帝行璽』の文字が刻まれており、三つには文字がありません。
璧は二十二枚、珪は五つ、鉄券は十一枚ありました。
王廟を開き、王綬を帯び、絳衣(赤い服)を着て、官員を配置しました。
「黄門北寺」は「黄門北寺獄」といい、監獄です。翌年に記述があります。
当時は連月火災があり、諸宮寺(宮殿・官署)で一日に再三火が起きることもありました。
また、夜に訛言(謡言、虚言)があり(人がいないのに声が聞こえたのだと思います)、人々が互いに鼓を敲いて恐慌したこともありました(夜有訛言撃鼓相驚)。
進言が繰り返され、その言葉は懇切で涙を流すこともありましたが、桓帝は聞き入れません。
そこで応奉が上書しました「忠賢の武将は国の心膂(心と背骨。中核)です。(臣が)窺い見るに、左校の弛刑徒(刑具を外された囚人)・馮緄、劉祐、李膺等は邪臣を誅挙(誅殺・検挙)し、法を用いてこれを述べました(法に則って実施しました。原文「肆之以法」)。ところが陛下は聴察(意見を聞いて調べること)しないばかりか、妄りに讒言を受け入れました(猥受譖訴)。その結果、忠臣と元悪(大悪)を同愆(同罪)にさせ、春から冬まで降恕(寛恕)を蒙っていないので、遠近の者が見聞きして(遐邇観聴)このために歎息しています。立政の要とは(政事を為す要とは)、功を記録して過失を忘れることです(記功忘失)。だから武帝は安国を徒中から赦し(原文「捨安国於徒中」。「捨」は「赦免」の意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢景帝時代に韓安国が梁の大夫になりましたが、罪を犯して刑罰を受けました。しかし後に梁の内史が足りなくなったため、刑徒の中から抜擢して二千石にしました。ここで「武帝」と言っているのは「景帝」の誤りです)、宣帝は張敞を亡命の中から招きました(原文「宣帝徵張敞於亡命」。西漢宣帝甘露元年・53年参照)。馮緄は以前、蛮荊を討ち、その功は吉甫と等しく(原文「均吉甫之功」。吉甫は西周宣王時代の賢臣で、玁狁を討伐しました)、劉祐はしばしば督司に臨んで不吐不茹の節がありました(原文「有不吐茹之節」。「茹」は「食べる」です。「不吐茹(不吐不茹)」は「硬い物を吐き捨てず、柔らかい物を食べない」という意味ですが、「強者を恐れず弱者を虐げないこと」の比喩として使われます。『資治通鑑』胡三省注によると、劉祐はかつて梁冀の弟・梁旻を弾劾し、司隸校尉になってからは権豪に畏れられました)。李膺は幽・并で威を明らかにし、度遼(北辺)に仁愛を残しました(原文「著威幽并遺愛度遼」。『資治通鑑』胡三省注によると、李膺が勤めた漁陽太守と烏桓校尉は幽州部に属し、度遼将軍は并州部に属しました)。今は三垂(三方の辺境)が蠢動し、王旅(王軍。朝廷の軍)がまだ振るわないので、李膺等を赦して不虞(不測の事態)に備えることを乞います。」
上書が提出されると、桓帝は三人の刑を免じました。
張朔は兄の家の合柱(数本の木で作った中が空洞の太い柱)の中に隠れました。
しかしそれを知った李膺は吏卒を率いて柱を破壊し、張朔を捕えて雒陽獄にわたしました。
張朔は供述を終えるとすぐに処刑されました。
李膺が答えました「昔、仲尼(孔子)は魯の司寇になり、七日で少正卯を誅しました。今、臣が官に到って既に一旬(十日)が経つので(已積一旬)、稽留(停滞。ここでは奸臣に対して久しく刑罰を行わないこと)が愆(罪)になることを心中で懼れていましたが、計らずも速疾の罪(行動が速すぎるという罪)を獲ることになりました。誠に自ら釁責(罪責)を知り、死が目前にありますが(死不旋踵)、特に五日間留まることを乞います。元悪(大悪)を尅殄(殲滅)してから、退いて鼎鑊(釜茹での刑)に就くことが、始生の願いです(原文「始生之願也」。「始生」は「出生」の意味だと思います。「始生の願い」は恐らく「生まれてからの願い」「生涯の願い」、または「延命した五日間における願い」です)。」
この後、諸黄門、常侍は皆、慎重恭敬になり(原文「鞠躬屏気」。「鞠躬」はお辞儀の意味で、恭しい様子を表します。「屏気」は呼吸を抑えることで、畏怖を表します)、休沐(休日)も宮省(宮中)から出なくなりました(自由に外出しなくなりました)。
桓帝が不思議に思ってその理由を尋ねると、皆、叩頭しながら泣いて「李校尉を畏れるのです」と言いました。
当時は朝廷が日々乱れており、綱紀が頽廃弛緩していましたが、李膺だけは風裁(剛正で媚びない品格)を持ち、その名声によって自分を高めました(原文「以声名自高」。名声があることで自分を慎重にさせました。名声を元に自分の行動を正しました)。
「龍門」は黄河の急流で、普通の魚では登ることができず、登りきった魚は龍になるといわれていました。
劉寛は劉崎(順帝時代の司徒)の子で、この後、三郡の太守を歴任します。
『後漢書・卓魯魏劉列伝(巻二十五)』によると、劉寛は大将軍(梁冀)に招聘されて司徒長史になり、後に東海相になりました。延熹八年(本年)、朝廷に召されて尚書令になってから南陽太守に遷り、三郡の太守を経歴します。
劉寛は温厚仁和で寛恕を多く行い(温仁多恕)、切迫した時でも早口になったり厳しい顔を見せることがありませんでした。
吏民に過失があっても蒲鞭(蒲草の鞭)で罰して恥辱を示すだけで、苦痛を加えたことはありません。
父老に会う度に農里(郷里)の事を語って慰労し、少年(若者)に会ったら孝悌の訓(教え)によって励ましたため、人々が皆喜んで教化されました。
次回に続きます。