東漢時代258 桓帝(三十六) 荀爽 166年(1)

今回は東漢桓帝延熹九年です。六回に分けます。
 
丙午 166
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛卯朔、日食がありました。
 
桓帝が詔を発して公卿、校尉や郡国に「至孝」の士を挙げさせました。
太常趙典が推挙した荀爽が対策(皇帝の問いに答えること)して言いました「昔、聖人が天地の中(間)に建ててこれを礼と呼びました(天地の法則に基いて、天にも地にも偏ることなく建てたのが礼です。原文「昔者聖人建天地之中而謂之礼」)。衆礼(多数の礼)の中では、昏礼(婚礼)が首(筆頭)になります。陽性が純潔であれば(陰に)施しができ、陰体が従順であれば(陰陽が)変化できます(陽性純而能施,陰体順而能化)。礼によって楽(歓楽)を輔佐し(調整し)、その気をちょうどよい状態に制御するので(以礼済楽,節宣其気)、子孫の祥を豊かにして老寿の福を至らすことができるのです。三代(夏商(殷)周)の季(末期)においては、淫にして節がなく、陽が上で尽きて陰が下で隔てられたため(陽竭於上,陰隔於下)、周公が戒めて『(安逸・歓楽に浸ったら)長寿を失うことになる(原文「時亦罔或克寿」。『尚書無逸』の言葉です)』と言い、『伝』が『足を切って靴に合わせても、誰がこれを愚昧と言うだろう。どうしてこのような人と比べられるか。欲を追って体(命)を喪うような人と(足を切って靴に合わせる人がいたとしても愚昧とは言えない。欲を追って体を喪うような人にはかなわない。原文「𢧵趾適屨,孰云其愚,何與斯人,追欲喪軀」)』と言いました。誠に痛むべきです。臣が窺い聞くに、後宮には采女が五六千人おり、それ以外にも従官侍使がいます(『資治通鑑』胡三省注によると、「従官」は爵秩があって後宮で常に皇帝に従う者、「侍使」は爵秩がなく、后妃や貴人の左右に仕える者です)。不辜(無罪)の民から虚しく賦税を集めて無用の女を養っており(空賦不辜之民以供無用之女)、百姓が外で窮困して陰陽が内で隔塞(隔絶)されているため、和気を感動(感応・異動)させて、災異がしばしば至っています。臣の愚見によるなら、幸御を得ていない者を全て後宮から出して妃合(配合。結婚)させるべきです(諸未幸御者一皆遣出使成妃合)。これは誠に国家の大福となります。」
桓帝は詔によって荀爽を郎中に任命しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
沛国の人戴異が黄金の印を手に入れました。印には文字がありません。
戴異は広陵の人龍尚等と共に井戸を祀り、符書を作り、「太上皇」を称しました。
しかし戴異等は誅に伏しました。
 
『孝桓帝紀』の注によると、戴異は鉏田(鋤で田を耕して草取りをすること)をしている時に金印を手に入れ、広陵に行って龍尚にわたしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
司隸豫州を饑饉が襲い、死者が十分の四五に及びました。ひどい場合は一戸が全滅した者もいました(『後漢書・孝桓帝紀』は三月に書いています)
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
己酉(十九日)桓帝が詔を発しました「連年の不作(比歳不登)のために民の多くが飢窮しており、また水旱疾疫の困もある。盗賊が原因で徴発しており南州(『孝桓帝紀』の注によると長沙、桂陽、零陵等の郡を指し、全て荊州に属します)が特に甚だしい(盗賊徵発南州尤甚)。災異日食による譴告も重ねて至っている。政乱の責任は予にあり頻繁に咎徵(災禍による報い)を獲ている(政乱在予仍獲咎徵)。よって大司農に令を下し、今歳(今年)の調度徵求(賦税の徴収)を絶たせて前年の徴集が終わっていない者(所調未畢者)も再び收責(徴収)しないことにする。災旱盗賊の郡は租を徴収せず、余郡(他の郡)は全て半数を入れることにする。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
桓帝が詔を発して度遼将軍張奐を招き、大司農に任命しました。代わりに使匈奴中郎将皇甫規を再び度遼将軍にします。
 
皇甫規は自分が大位(高位)に居続けていると考え、退避を欲してしばしば病を患っていると上書しましたが、批准されませんでした。
ちょうどこの頃、友人の喪(霊柩)が故郷に帰ったため、皇甫規が管轄する地域の境界を越えて迎えに行きました。その後、客に命じて并州刺史胡芳に「皇甫規が勝手に軍営から遠く離れたので、急いで挙奏(検挙上奏)するべきです」と密告させます(『資治通鑑』胡三省注によると、度遼将軍は西河界内に駐屯しており、并州刺史の管轄下にいました)
しかし胡芳は「威明(皇甫規の字です)は家に帰って仕官の道を避けることを欲している(欲避第仕塗)。だからわしを激発させたのだ。わしは朝廷のために才を愛さなければならない。どうして彼の計を展開することができるか(何能申此子計邪)」と言って不問にしました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
三月癸巳、京師で火光が転がって移動し、人々が驚譟(驚いて騒ぐこと)しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
司隷、豫州で餓死した者が十分の四五もおり、一戸が全滅した者もいました(『資治通鑑』は正月に書いています)
朝廷は三府掾を派遣して賑稟(救済)しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
陳留太守韋毅が貪汚の罪に坐して自殺しました(坐臧自殺)
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、済陰、東郡、済北、平原で河水黄河が清みました(澄みました)
 
[] 『後漢書孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒許栩を罷免しました。
五月、太常胡広を司徒に任命しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
庚午(『資治通鑑』は「五月」に書いていますが、『後漢書桓帝紀』では「七月」に入ってからの事とされています。『欽定四庫全書後漢』では「六月庚午」です。中華書局『白話資治通鑑』は「五月庚午」を恐らく誤りとしていますが、ここでは『資治通鑑』のまま、五月に置きます)桓帝が濯龍宮で自ら老子を祀りました。
文罽(模様がある絨毯。『資治通鑑』胡三省注によると、西夷の毛を織って作った布を「罽」といいます)で祭壇を作り、淳金(純金)で器を飾り(原文「飾淳金釦器」。「釦器」は縁を金属で装飾した器です)、華蓋(豪華な傘)の坐を設けて郊天(天を祀る郊祭)の楽曲を使いました。
 
資治通鑑』胡三省注は「史書は非礼(祭祀の礼に当てはまらないこと)を記述している(史言其非礼)」と書いています。
 
尚、『資治通鑑』では桓帝が濯龍宮で老子を祀っており、『後漢記』でも老子を祀っていますが、『後漢書桓帝紀』は「庚午、黄老を濯龍宮で祀った」と書いています。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
張奐が去ったため、それを知った鮮卑南匈奴烏桓と結んで共に叛しました。
六月、南匈奴烏桓鮮卑が数道から塞内に入り、縁辺の九郡を侵略しました。
 
秋七月、鮮卑が再び塞内に入り、東羌を誘って盟を結びました(与共盟詛)
上郡の沈氐や安定の先零諸種(諸族)が共に武威、張掖を侵すようになり、縁辺が大いに害を被ります。
 
これに対して、桓帝が詔を発して武猛の士を挙げさせました。三公は各二人、卿校尉は各一人です。
 
また、桓帝が詔を発して再び張奐を使匈奴中郎将(『孝桓帝紀』では「使匈奴中郎将」、『資治通鑑』では「護匈奴中郎将」です)に任命し、匈奴烏桓鮮卑を撃たせました。
張奐に九卿の秩を与え(『資治通鑑』胡三省注によると、護匈奴中郎将の秩は比二千石で、九卿の秩は中二千石です)、幽涼三州および度遼烏桓二営(度遼将軍と護烏桓校尉の営)を監督させ、併せて刺史や二千石(太守国相)の能力も考察させました。
 
 
 
次回に続きます。