東漢時代260 桓帝(三十八) 陳蕃の上書 166年(3)

今回も東漢桓帝延熹九年の続きです。
 
[十三(続き)] 太尉陳蕃と司空劉茂が共に桓帝を諫め、成瑨、劉、翟超、黄浮等の罪を赦すように請いました。
後漢書陳王列伝』では「陳蕃と司徒劉矩、司空劉茂」が上書していますが、当時の司徒は胡広です。『資治通鑑』は「司徒劉矩」を省いています(胡三省注参照)
 
陳蕃等の諫言を受けて桓帝が不快になりました。
有司(官員)が上奏して逆に陳蕃等を弾劾したため、劉茂は発言しなくなりました。
 
そこで陳蕃が独りで上書しました「今、寇賊が外にいて四支の疾(病)となり、内政が治まらず(内政不理)心腹の患となっているので、臣は寝ても寝付けず(寝不能寐)、食事をしても満腹にならず(食不能飽)、実に(陛下の)左右の者が日々近くなって忠言が日々遠くなり、内患が徐々に積もって外難が深くなっていることを憂いています。陛下は列侯(蠡吾侯)から位を超えて天位を継承しました(超従列侯継承天位)。小家が百万の資を畜産(蓄積)しただけでも、その子孫は先業を失うことを恥愧(羞恥、慚愧)とします。産業が天下を兼ねて先帝から受けたものなら(先帝から継承した産業(事業)で、全天下を兼ねることなら)なおさらです(況乃産兼天下受之先帝)。それなのに懈怠(怠惰怠慢)を欲して自ら軽忽(軽視)するのですか。誠に自分を愛さないとしても、先帝がこれを得た勤苦を念じる必要がないのでしょうか。以前、梁氏五侯(『資治通鑑』胡三省注によると、この「五侯」は梁冀が自殺した時に殺された梁胤、梁讓、梁淑、梁忠、梁戟を指します)の毒が海内に行き渡りましたが、天が聖意(皇帝の意)を開いたので、彼等を捕えて誅殺し(天啓聖意收而戮之)、天下の議(意見)が小平(わずかな太平)になることを望みました(冀当小平)。ところが、明鑒(明らかな教訓)が遠くなく、覆車(車が横転すること。失敗)が昨日の事のようであるのに、近習(近臣)の権がまた互いに扇結(扇動、結合)しています。
小黄門趙津、大猾(姦人)張汎等はほしいままに貪虐を行い、左右(皇帝の近臣)に姦媚(姦計によって媚びること)していたので、以前の太原太守南陽太守成瑨がこれを糾(糾弾)して戮(誅殺)しました。確かに赦後は誅殺するべきではないと言いますが、その誠心の根源は悪を除くことにありました(または「その誠心は悪を除くことにあったので赦すべきです」。原文「原其誠心在乎去悪」)。陛下においてはなぜ悁悁(憤懣の様子)とするのでしょうか。しかし、小人の道が長くなり(原文「小人道長」。小人が権勢を握っているという意味です。『易』に「小人の道が長くなれば君子の道が消える(小人道長,君子道消)」とあります)、聖聴(皇帝の耳)を営惑(惑わすこと。『資治通鑑』は「熒惑」としていますが、『後漢書陳王列伝』では「營惑」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)しているので、そのために天威を発怒させました(皇帝を怒らせました)。必ず刑譴(刑罰)を加えるというだけでも既に度が過ぎているのに(已為過甚)、重罰によって欧刀(良刀。または処刑に使う刀)に伏させるのならなおさらです(劉等を処刑するのだとしたらなおさら度が過ぎています)
また、以前の山陽太守翟超と東海相黄浮は公を奉じて屈することなく(奉公不橈)、悪を讎(仇敵)のように嫌いましたが、翟超は侯覧の財物を没し、黄浮は徐宣の罪を誅したため、併せて刑坐(刑罰)を蒙り、赦恕(寛恕赦免)に逢っていません。侯覧の縦横は、没財が既に幸であり、徐宣は釁過(罪過)を犯したので、死んでも余辜(余罪)があります侯覧の放縦横行に対しては財産の没収で済んだだけで幸とするべきです。徐宣の罪は死刑にしても償えません)
昔、丞相申屠嘉が鄧通を召して譴責し、雒陽令董宣が公主を折辱しましたが、文帝は(申屠嘉に)従って(鄧通の)命乞いをし西漢文帝後二年162年参照)、光武は(董宣に)重賞を加えました光武帝建武十九年43年参照)。未だ二臣に専命(専横、専断)の誅があったとは聞いたことがありません。しかし今は左右の群豎(小人の群れ)が党類(党羽)が傷つけられたことを憎み、妄りに交構して(互いに協力して妄りに忠臣を罪に陥れ。原文「悪傷党類,妄相交構」。「交構」は互いに罪に陥れることです)この刑譴をもたらしました。臣のこの言を聞いたら、また泣いて訴えるでしょう(当復嗁訴)。陛下はまさに近習の與政の源(政治に関与する根源)を割いて塞ぎ、尚書朝省(朝廷)の士を引納(採用)し、清高を簡練(選択鍛錬)して佞邪を斥黜(排斥)するべきです。そうすれば天が上で和し、地が下で調和するので(天和於上,地洽於下)、休禎(吉祥)符瑞がどうして遠くなるでしょう(豈遠乎哉)。」
桓帝はこの意見を採用しませんでした。
 
この後、宦官がますます陳蕃を憎むようになりました。陳蕃が人材を選挙する上奏を行っても、常に中詔(宮中が直接発布する詔書によって譴責を受けて却下されます。
(陳蕃の)長史以下の多くの官員が宦官のために罪に坐して刑を受けましたが、陳蕃自身は名臣だったため、宦官もまだ直接危害を加えることができませんでした。
 
 
 
次回に続きます。