東漢時代261 桓帝(三十九) 襄楷の上書 166年(4)

今回も東漢桓帝延熹九年の続きです。
 
[十三(続き)]平原の人襄楷が宮闕を訪ねて上書しました「臣が聞いたところでは、皇天は言を下さず、文象(天象)によって教えを設けます。臣が太微を窺い見たところ、天廷五帝の坐の中で金火の罰星が光を揚げていました(『資治通鑑』胡三省注から解説します。「太微」は天子の庭を象徴し、「五帝の坐」に当たります。金星は太白、火星は熒惑です。「夏令(夏に為すべきこと)」に逆らったら火気を傷つけ、罰として熒惑が現れます。「秋令」に逆らったら金気を傷つけ、罰として太白が現れます。そのため、金星と火星は罰星といいました。当時、天子の庭で金星と火星が輝いていました)。占においては天子の凶です(於占,天子凶)。また、ともに房心に入りました(『資治通鑑』胡三省注によると、房四星と心三星があり、心三星のうち中星は明堂で天子の位置、前星は太子、後星は庶子に当たります)。これは後嗣ができないことに法っています(後嗣ができないことに基いています。原文「法無継嗣」)
前年(二年前)の冬は大寒(厳寒)で、鳥獣を殺し、魚鼈(魚やすっぽん。水中の動物)を害し、城傍の竹柏の葉にも傷枯したものがありました(竹や柏は冬でも枯れないものですが、極寒のため枯れてしまいました。『資治通鑑』胡三省注によると、『続漢志(司馬彪)』が「延熹七年164年。二年前)、雒陽城旁の竹柏の葉で傷枯するものがあった」と書いています。『後漢書桓帝紀』は本年延熹九年)の冬十二月に「洛城傍の竹柏が枯傷した」と書いていますが、恐らく誤りです)。臣が師に聞くと、こう言いました『柏が傷つき竹が枯れたら、二年を出ずに天子がこれに当たる(天子の身に凶事が起きる)。』
今は春夏以来、続けて霜雹および大雨雷電がありますが、臣が威福を為して(原文「作威作福」。賞罰を勝手に行う、専横するという意味です)、刑罰が急刻(厳酷)なことに感じているのです(反応しているのです)
太原太守南陽太守成瑨は姦邪を除くことを志し、彼等が誅翦(誅滅廃除)した者は皆、人望に合っていました。しかし陛下は閹豎の譖(讒言)を受け入れ、遠くに考逮(逮捕と審理拷問)を加えました。三公が上書して劉等への哀憫を乞いましたが(乞哀等)、採察(採用考察)されることなく、逆に厳しく譴讓(譴責)を被ったので、憂国の臣が口を塞ぐことになるでしょう(将遂杜口矣)。臣が聞くに、無罪の者を殺して賢者を誅したら、禍が三世に及ぶといいます(『資治通鑑』胡三省注によると、黄石公の『三略』に「賢者を傷つけたら禍が三世に及び、賢者を隠したらその身が害を受ける。賢者を達したら(推挙したら)福が子孫に及び、賢者を嫌ったら名を全うできない(傷賢者殃及三世,蔽賢者身当其害。達賢者福流子孫,疾賢者名不全)」とあります)
陛下は即位して以来、頻繁に誅罰を行っており、梁(『資治通鑑』胡三省注によると、梁冀、寇栄、孫寿、鄧万世等を指します)が並んで族滅され、従坐連座した者もまたその数ではありません(四氏以外にも多くの者が連座して殺されました。原文「其従坐者又非其数」)。李雲の上書は明主が忌避すべきことではありません(李雲上書明主所不当諱)。杜衆が死を乞うたのは、誠に聖朝を感悟させるためでした(諒以感悟聖朝)。しかし(二人は)赦宥を受けることなく、併せて残戮を被ることになりました。天下の人が皆、その冤(冤罪)を知っています。漢興以来、諫言を拒んで賢人を誅殺し、今のように用刑(刑罰)が深いことはありませんでした(未有拒諫誅賢用刑太深如今者也)
昔、西周文王は一妻でしたが、十子が誕生しました(原文「誕致十子」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。文王の正妃は太姒です。長子は伯邑考で、弟に武王発、管叔鮮、周公旦、蔡叔度、曹叔振鐸、成叔武、霍叔処、康叔封、聃季載がいました。十人の同母兄弟です)。今は宮女が数千人いますが、まだ慶育(皇子誕生)を聞きません。徳を修めて刑を省くことで『螽斯(きりぎりす。『詩経国風』に『螽斯』という詩があり、子孫が繁栄することを歌っているため、「螽斯」は子が多いことの比喩に使われます)』の祚(福)を広くするべきです(子宝に恵まれる福を広く求めるべきです)
春秋以来、古の帝王に及んでも、河黄河が清んだ(澄んだ)ことはありませんでした(未有河清)。臣が思うに、河とは諸侯の位です(『資治通鑑』胡三省注によると、五嶽は三公を視て四瀆は諸侯を視ました。五嶽は泰山華山衡山恒山嵩山、四瀆は長江黄河淮水済水です)。清は陽に属し、濁は陰に属します。河が濁であるはずなのに逆に清となったのは、陰が陽になろうと欲し、諸侯が帝になろうと欲しているからです。
京房の『易伝』はこう言っています『河水が清んだら天下が太平になる(河水清,天下平)。』しかし今は天が異を降して地が妖を吐き、人に疫病があります(天垂異,地吐妖,人癘疫)三者が時を並べたのに(同時に起きたのに)河が清んだのは、春秋時代に現れるべきではない麟が現れたのと同じで、孔子がこれを書したのは異(異変)とみなしたからです(または「孔子が麟の出現を記述して異変とみなしました」。原文「猶春秋麟不当見而見,孔子書之以為異也」)(臣は)清閒(暇な時間)を賜って語るべきことを言い尽くすことを願います(願賜清閒極尽所言)。」
上書が提出されましたが、桓帝は取り合いませんでした。
 
十余日後、襄楷が再び上書しました「臣が聞いたところによると、殷紂が好色だったので妲己が現れました。葉公が龍を好んだので、真龍が廷(庭)で遊びました(楚の葉公子高が龍を愛したため、それを聞いた天龍が地に降りたといわれています)。今は黄門常侍といった天刑の人(天の刑罰を受けた人)を陛下が愛待(寵愛優待)し、通常の寵愛の数倍になっています(兼倍常寵)。まだ係嗣(後嗣)の兆しがないのは、このためではありませんか(係嗣未兆豈不為此)
また聞くところによると、宮中に黄浮屠仏陀の祠を建てていますが、これらの道は清虚なものであり(此道清虛)、無為を尊び(貴尚無為)、生を愛して殺を憎み(好生悪殺)、欲を省いて奢侈を除いています(省慾去奢)。今、陛下は耆欲(嗜好と欲望)を去らず、殺罰が理を越えており、既にその道から違えています(既乖其道)。どうしてその祚(福)を獲られるでしょう(豈獲其祚哉)
浮屠が桑下に三宿しなかったのは、久しくなって恩愛が生まれることを欲しなかったからであり仏教徒は愛恋の情を抱かないため、同じ桑の木の下で三泊することはありませんでした)(その教えは)精の極みです(精之至也)。このように一つの信念を守るから、道を成せるのです(其守一如此乃能成道)。今、陛下の淫女豔婦(艶婦)は天下の麗を極めており、甘肥飲美(美食美酒)は天下の味を尽くしています。どうして黄老のようになろうと欲するのでしょうか(柰何欲如黄老乎)。」
 
上書が提出されると、桓帝は襄楷を召して入宮させ、詔を発して尚書に詳しく応答させました。
襄楷が尚書に言いました「古は本来、宦臣がいませんでした。武帝の末(晩年)になって、武帝が)しばしば後宮で遊んだので、初めて置かれるようになったのです。」
 
尚書(宦官の)意志を受けてこう上奏しました「襄楷は辞理を正さず、経芸(経典)から違背(乖離)し、星宿(星座)を借りて自分の意見に符合させ(假借星宿造合私意)、上を欺いて事実を曲げています(誣上罔事)司隸に下して襄楷の罪法を正し、逮捕して雒陽獄に送ることを請います。」
桓帝は襄楷の言が激切だったものの、全て天文恒象の数(吉凶を予測する天象の術)だったため、誅殺せず司寇(二年間の労役)の刑に処しました(天譴を畏れたのだと思われます)
 
明帝永平年間以来、臣民の中には浮屠の術を習う者もいましたが、天子はまだそれを好みませんでした。しかし桓帝に至ると始めて篤好(篤く愛すること)して頻繁に自ら祷祠(祭祀)したため、ここから浮屠の法(仏教)がしだいに盛んになりました。襄楷が浮屠に言及したのはこのためです。
 
 
 
次回に続きます。