東漢時代262 桓帝(四十) 第一次党錮事件 166年(5)
[十三(続き)] 符節令(『資治通鑑』胡三省注によると、符節令は秩六百石で、符節台の率(長)となり、符節の事を担当しました。少府に属します)・汝南の人・蔡衍と議郎・劉瑜が成瑨と劉瓆を救うために上書を行いましたが、その言葉が切厲(激烈)だったため、罪に坐して免官されました。
成瑨と劉瓆は獄中で死にました。
二人は元から剛直で、経術に通じており、当時において名が知られていたため、天下が二人を惜しみました。
岑晊と張牧は逃竄(逃亡)して禍から逃れることができました。
岑晊が逃亡した時、親友が競って岑晊を匿いましたが、賈彪だけは門を閉ざして受け入れなかったため、時の人が賈彪を怨みました(原文「時人望之」。「望」は「怨」の意味です)。
賈彪はこう言いました「『伝』は『時を観察して行動し、後人を巻き込まない(原文「相時而動,無累後人」。『春秋左氏伝』の言葉です)』と言っている。公孝(岑晊の字)は君(長官。南陽太守・成瑨)に強要して釁(罪)をもたらし、自らその咎(害)を残したのだ(公孝以要君致釁,自遺其咎)。私は戈を奮って彼に対すことができないのに(彼に対して戈を奮えないことを恨んでいるのに)、逆に彼を許容して隠すことができるか(吾已不能奮戈相待,反可容隠之乎)。」
人々は賈彪の裁正(公正な判断、処置)に感服しました。
賈彪はかつて新息長になりました。『資治通鑑』胡三省注によると、新息県は汝南郡に属します。
当時、小民(庶民)は貧困なため、多くの者が子を養えませんでした。
賈彪は厳しく制度を定め、(自分の子を殺す罪を)殺人と同罪にしました。
ある時、城南に盗賊がおり、人から物を奪って殺害しました。
また、城北には自分の子を殺した婦人がいました。
賈彪が自ら官府を出て按験(調査)に行きました。掾吏は賈彪の車を牽いて南に向かおうとします。
すると賈彪が怒って言いました「賊寇が人を害すのは常理である。しかし母子が互いに害しあうのは、天に逆らって道に違えることだ(母子相残逆天違道)。」
賈彪は車を駆けさせて北に行き、母の罪を調べて判決を下しました(按致其罪)。
これを聞いた城南の賊は面縛(手を後ろに縛ること)して自首しました。
数年後、子を養う者が千人を数えるようになり、人々は「これは賈父が生んだ子だ(此賈父所生也)」と言って名を「賈」にしました。
河内の人(『資治通鑑』は「河南」としていますが、『後漢書・党錮列伝(巻六十七)』では「河内」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)・張成は風角(四方の風から吉凶を占う術)を得意としており、占によって近く大赦があると予測しました。そこで自分の子に人を殺させました。
司隸校尉・李膺(『後漢書・党錮列伝』は李膺を「河南尹」としていますが、『資治通鑑』胡三省注は「この事件は河南尹だった時の事ではない」と書いています)が官吏を督促して(張成父子を)逮捕させましたが、宥(大赦)に逢ったため、(張成父子も)赦免を獲ました。
張成は以前から方伎(方術)によって宦官と交流しており、桓帝もしばしば張成の占に意見を求めていたため、宦官が張成の弟子・牢脩(人名です。『資治通鑑』胡三省注によると、「牢順」とも書きます)を使ってこう上書させました「李膺等は太学の游士を養い、諸郡の生徒と交結し、互いに尽力・奔走し合って(「互いに遠路を訪問し合って」。または「互いに遠路を駆けて助け合い」。原文「更相駆馳」)、共に部党を為し、朝廷を誹訕(誹謗)して風俗を疑乱(困惑・混乱)させています。」
しかし太尉・陳蕃は文書を退けて「今、按としている者(逮捕の対象にした者)は、皆、海内の人々が称賛している(海内人誉)憂国忠公の臣であり、このような者達は十世にわたっても寛恕されるべきだ(此等猶将十世宥也)。どうして罪名が明らかではないのに收掠(逮捕拷問)をもたらすのだ」と言い、平署(連署。他の大臣と並んで署名すること)を拒否しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、当時は宦官が専権しており、黄門北寺獄を置いていました。武帝以来、中都官(京師の官)が詔獄(皇帝が管理する獄)を置いたことはありませんでした(自武帝以來,中都官詔獄所未有也)。
しかし、『後漢書・百官志二』を見ると「孝武帝(西漢武帝)以下、中都官獄二十六所を置いたが、各令・長の名は世祖(東漢光武帝)の中興によって全て省かれ、廷尉および雒陽だけに詔獄があった(孝武帝以下置中都官獄二十六所,各令長名世祖中興皆省,唯廷尉及雒陽有詔獄)」と書かれています(廷尉府内の獄も詔獄といいます)。胡三省注の「武帝」は「光武帝」の誤りではないかと思われます。
本文に戻ります。
ある者は逃亡して逮捕されませんでした。しかし朝廷は全ての党人に賞金をかけて身柄を求め、多数の使者を四方に派遣しました(皆懸金購募使者四出相望)。
陳寔は「私が獄に就かなかったら、皆が頼る所が無い(他の者が獄に行けない。原文「吾不就獄,衆無所恃」)」と言って自ら出頭しました(請囚)。
范滂が獄に入った時、獄吏が言いました「罪に坐して繋がれた者は皆、皋陶(堯・舜時代の法官)を祭れ。」
范滂が言いました「皋陶は古の直臣なので、滂(私)の無罪を知ったら帝(天帝)の前で弁明するだろう(将理之於帝)。もしも本当に罪があるのなら、これを祭って何の益があるのか。」
この後、他の囚人たちも皋陶を祭らなくなりました。
次回に続きます。