東漢時代262 桓帝(四十) 第一次党錮事件 166年(5)

今回も東漢桓帝延熹九年の続きです。
 
[十三(続き)] 符節令(『資治通鑑』胡三省注によると、符節令は秩六百石で、符節台の率(長)となり、符節の事を担当しました。少府に属します)汝南の人蔡衍と議郎劉瑜が成瑨と劉を救うために上書を行いましたが、その言葉が切厲(激烈)だったため、罪に坐して免官されました。
 
成瑨と劉は獄中で死にました。
二人は元から剛直で、経術に通じており、当時において名が知られていたため、天下が二人を惜しみました。
 
尚、二人が獄中で死んだという部分は『資治通鑑』の記述で、『後漢書陳王列伝(巻六十六)』の「皆死於獄中(二人とも獄中で死んだ)」が元になっています。
後漢書桓帝紀』は本年九月に「南陽太守成瑨と太原太守劉質(劉が並んで譖(讒言)のために弃市(棄市)に処された」と書いています。
 
岑晊と張牧は逃竄(逃亡)して禍から逃れることができました。
 
岑晊が逃亡した時、親友が競って岑晊を匿いましたが、賈彪だけは門を閉ざして受け入れなかったため、時の人が賈彪を怨みました(原文「時人望之」。「望」は「怨」の意味です)
賈彪はこう言いました「『伝』は『時を観察して行動し、後人を巻き込まない(原文「相時而動,無累後人」。『春秋左氏伝』の言葉です)』と言っている。公孝(岑晊の字)は君(長官。南陽太守成瑨)に強要して釁(罪)をもたらし、自らその咎(害)を残したのだ(公孝以要君致釁,自遺其咎)。私は戈を奮って彼に対すことができないのに(彼に対して戈を奮えないことを恨んでいるのに)、逆に彼を許容して隠すことができるか(吾已不能奮戈相待,反可容隠之乎)。」
人々は賈彪の裁正(公正な判断、処置)に感服しました。
 
賈彪はかつて新息長になりました。『資治通鑑』胡三省注によると、新息県は汝南郡に属します。
当時、小民(庶民)は貧困なため、多くの者が子を養えませんでした。
賈彪は厳しく制度を定め、(自分の子を殺す罪を)殺人と同罪にしました。
ある時、城南に盗賊がおり、人から物を奪って殺害しました。
また、城北には自分の子を殺した婦人がいました。
賈彪が自ら官府を出て按験(調査)に行きました。掾吏は賈彪の車を牽いて南に向かおうとします。
すると賈彪が怒って言いました「賊寇が人を害すのは常理である。しかし母子が互いに害しあうのは、天に逆らって道に違えることだ(母子相残逆天違道)。」
賈彪は車を駆けさせて北に行き、母の罪を調べて判決を下しました(按致其罪)
これを聞いた城南の賊は面縛(手を後ろに縛ること)して自首しました。
数年後、子を養う者が千人を数えるようになり、人々は「これは賈父が生んだ子だ(此賈父所生也)」と言って名を「賈」にしました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
河内の人(『資治通鑑』は「河南」としていますが、『後漢書党錮列伝(巻六十七)』では「河内」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)張成は風角(四方の風から吉凶を占う術)を得意としており、占によって近く大赦があると予測しました。そこで自分の子に人を殺させました。
司隸校尉李膺(『後漢書党錮列伝』は李膺を「河南尹」としていますが、『資治通鑑』胡三省注は「この事件は河南尹だった時の事ではない」と書いています)が官吏を督促して(張成父子を)逮捕させましたが、宥大赦に逢ったため、(張成父子も)赦免を獲ました。
ところが李膺はますます憤疾(憤怒憎悪)を抱き、罪に基いて処刑しました。
張成は以前から方伎(方術)によって宦官と交流しており、桓帝もしばしば張成の占に意見を求めていたため、宦官が張成の弟子牢脩(人名です。『資治通鑑』胡三省注によると、「牢順」とも書きます)を使ってこう上書させました「李膺等は太学の游士を養い、諸郡の生徒と交結し、互いに尽力奔走し合って(「互いに遠路を訪問し合って」。または「互いに遠路を駆けて助け合い」。原文「更相駆馳」)、共に部党を為し、朝廷を誹訕(誹謗)して風俗を疑乱(困惑混乱)させています。」
震怒(激怒)した桓帝は党人の逮捕令を郡国に下し、天下に布告して共に党人を忿疾(憤疾。憤怒憎悪)させようとしました。
ここでいう「党人」とは、李膺等の官員や太学生等、宦官の専横に反対する士人、知識人を指します。
 
(文案。桓帝の命令)が三府(三公府)を経由しました。
しかし太尉陳蕃は文書を退けて「今、按としている者(逮捕の対象にした者)は、皆、海内の人々が称賛している(海内人誉)憂国忠公の臣であり、このような者達は十世にわたっても寛恕されるべきだ(此等猶将十世宥也)。どうして罪名が明らかではないのに收掠(逮捕拷問)をもたらすのだ」と言い、平署連署。他の大臣と並んで署名すること)を拒否しました。
桓帝はますます怒って李膺等を黄門北寺獄に下しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、当時は宦官が専権しており、黄門北寺獄を置いていました。武帝以来、中都官(京師の官)が詔獄(皇帝が管理する獄)を置いたことはありませんでした(自武帝以來,中都官詔獄所未有也)
しかし、『後漢書百官志二』を見ると「孝武帝西漢武帝以下、中都官獄二十六所を置いたが、各令長の名は世祖東漢光武帝の中興によって全て省かれ、廷尉および雒陽だけに詔獄があった(孝武帝以下置中都官獄二十六所,各令長名世祖中興皆省,唯廷尉及雒陽有詔獄)」と書かれています(廷尉府内の獄も詔獄といいます)。胡三省注の「武帝」は「光武帝」の誤りではないかと思われます。
 
本文に戻ります。
李膺等が逮捕されると、供述が他の者にも影響を与え、太僕潁川の人杜密、御史中丞陳翔および陳寔、范滂等二百余人が巻き込まれました。
 
ある者は逃亡して逮捕されませんでした。しかし朝廷は全ての党人に賞金をかけて身柄を求め、多数の使者を四方に派遣しました(皆懸金購募使者四出相望)
 
今回逮捕された党人は翌年に全て禁錮刑に処されます。これを「第一次党錮の禁」「第一次党錮事件」といいます。
第二次党錮事件は霊帝建寧二年169年)に起きます。第一次党錮事件とは異なり、多数の党人が命を落とします。
 
陳寔は「私が獄に就かなかったら、皆が頼る所が無い(他の者が獄に行けない。原文「吾不就獄,衆無所恃」)」と言って自ら出頭しました(請囚)
 
范滂が獄に入った時、獄吏が言いました「罪に坐して繋がれた者は皆、皋陶(堯舜時代の法官)を祭れ。」
范滂が言いました「皋陶は古の直臣なので、滂(私)の無罪を知ったら帝(天帝)の前で弁明するだろう(将理之於帝)。もしも本当に罪があるのなら、これを祭って何の益があるのか。」
この後、他の囚人たちも皋陶を祭らなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。