東漢時代263 桓帝(四十一) 大秦国王安敦 166年(6)

今回で東漢桓帝延熹九年が終わります。
 
[十四(続き)] 陳蕃が再び上書して桓帝を強く諫めました。
桓帝は上書の言葉が激切だったことを嫌い、陳蕃が辟召(招聘)した者が相応しくなかったという理由で策免しました。
 
後漢書桓帝紀』では秋七月に太尉陳蕃が罷免されて九月に光禄勳周景が太尉になっており、本年の最後に「司隷校尉李膺等二百余人が誣(誣告)を受けて党人となり、並んで(罪に)坐して獄に下され、王府に名が記録された(書名王府)」と書かれています。
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』でも九月に詔によって李膺等三百余人(『後漢書桓帝紀』では「二百余人」です)の逮捕を命じています(『後漢記』は陳蕃の罷免を書いていません。下述します)
資治通鑑』では李膺等が逮捕されてから陳蕃が罷免されていますが、逆かもしれません。その場合は、陳蕃が李膺等の逮捕に反対したために罷免され(七月)、その後(九月)李膺等が逮捕されたと考えられます。
 
また、『後漢書陳王列伝(巻六十六)』が陳蕃の極諫の内容を書いており、その中で「前司隸校尉李膺、太僕杜密、太尉掾范滂等は(略)、ある者は禁錮閉隔(隔絶)され、ある者は相応しくない場所で死刑や流刑に遭っています(或死徙非所)」と言っています。  
李膺等は翌年に釈放されますが、霊帝建寧二年169年)に再び逮捕されて命を落とします。極諫には「ある者は死刑に遭った」と書かれているので、第二次党錮事件建寧二年169年)の後に行われた上書かもしれません。
但し、陳蕃は霊帝建寧元年168年)に殺されるので、第二次党錮事件後の上書だとしたら、上書した人物は陳藩ではなくなります。
 
陳蕃の罷免については、『後漢書』には記述がありますが、『後漢紀』には書かれていません。『後漢紀』では、霊帝が即位してから「太尉陳蕃」を太傅に任命しています建寧元年春正月。『後漢書桓帝紀』は「以前の太尉陳蕃を太傅にした」と書いています)。しかし陳蕃は本年に罷免されて周景が太尉になるので、この部分は『後漢紀』の誤りのようです(以上、胡三省注を一部参考にしました)
 
本文に戻ります。
当時、党人の獄で染逮(牽連逮捕)された者は皆、天下の名賢でした。
度遼将軍皇甫規は西州の豪桀を自任していたため、党人に入らなかったことを恥とし、自ら上書しました「臣は以前、元大司農張奐を推薦しました。これは党人に阿附することです(是附党也)。また、臣が昔、左校で労役の刑に処された時(論輸左校時)太学張鳳等が上書して臣のために訴えました(訟臣)。これは党人に阿附されることです(是為党人所附也)。臣はこの罪に坐すべきです(臣宜坐之)。」
朝廷は上書の内容を知っても不問にしました。
 
太僕杜密は以前から名行(名声と品行)李膺と並んでおり、当時の人々から「李杜」と併称されていたため、同時に逮捕されました。
杜密はかつて北海相を勤め、春の巡行で高密に到りました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡国の守相は通常、春に管轄の県を巡幸し、民に農桑(農業)を奨励したり、貧困な者を救済しました。
杜密は高密で郷の嗇夫(下級官吏。『後漢書錮列伝』では「郷佐」です)を勤める鄭玄に遇い、その異器(異才)を知りました。そこで、すぐに召して郡職に就けてから、(京師に)送って就学させました。
鄭玄はこの後、学業を修めて大儒になります。
 
後に杜密は官を去って家に還りました(『党錮列伝』によると、杜密は潁川陽城の人です)
杜密はいつも守令(太守や県令)に謁見して多くの事を陳託(請託)しました。
同郡の劉勝も蜀郡から官を辞して郷里に帰りましたが、門を閉じて人との交わりを絶ち(原文「閉門掃軌」。「掃軌」は車輪の跡を消すことで、人の訪問をなくす、交際を断つという意味です)、守令に干渉しませんでした。
太守王昱が杜密に言いました「劉季陵(季陵は劉勝の字です)は清高の士なので、公卿には彼を推挙する者が多数いる。」
杜密は王昱が自分を刺激させようとしていると知り、こう答えました「劉勝は位が大夫になり、見礼(太守が劉勝を接見する時の礼)は上賓に対するものですが、善を知っても薦めず、悪を聞いても言わず、情を隠して自分を惜しみ(実情を隠して保身し。原文「隠情惜己」)、自ら寒蟬(ヒグラシ等の秋の蝉。寒くなってから寂しく鳴く蝉。寂寞の比喩として使われます)と同じくしているので、これは罪人です。今、志義力行の賢(義を志して尽力している賢才)は密(私)がこれを達し(推薦し)、違道失節の士(道を違えて節を失った士)は密(私)がこれを糾し(糾弾し)、明府の賞刑に中を得させ(賞刑を公正中庸にさせ)、美しい名声を顕揚しています(原文「令問休揚」。「令」は「美」、「問」は「聞」「名声」です。「休揚」は「顕揚」です)。万分の一もありませんか(万分の一の助けにもなっていませんか。原文「不亦万分之一乎」)。」
王昱は恥じ入って敬服し、ますます厚く待遇するようになりました。
 
『党錮列伝』によると、この後、桓帝が杜密を召して尚書令に任命しました。
杜密は更に河南尹を勤めてから太僕になりましたが、党事(第一次党錮事件)が起きたため、免官されて本郡に帰り、李膺と共に罪に坐しました。
 
[十五] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、光禄勳周景を太尉に任命しました。
司空劉茂を罷免しました。
 
[十六] 『後漢書桓帝紀』からです。
大秦国王が使者を派遣して奉献しました。
『孝桓帝紀』の注によると、国王安敦が象牙、犀角、瑇瑁(海亀)等を献上しました。
 
大秦国はローマ帝国です。
和帝永元九年97年)に甘英がローマを目指しましたが、到達できませんでした。
安帝永寧元年120年)には永昌徼外(界外)の撣国王雍曲調(または「雍由調」)が使者を派遣して東漢に楽(楽人。楽団)や幻人を献上しました。幻人は海西人を自称しており、海西は大秦(ローマ)を指します。
そして本年、大秦国王の使者が東漢を訪れました。
後漢書西域伝(巻七十八)』にも記述があり、こう書いています「大秦王安敦が使者を派遣し、日南徼外(界外)から象牙、犀角、玳瑁を献上した。初めての交流である。」
 
「大秦王安敦」は「ローマ皇帝アントニヌス」を指します。但し、マルクスアウレリウスアントニヌス(在位期間161年から180年)かその先代のアントニヌスピウス(在位期間138年から161年)かははっきりしません。
また、『西域伝』にはこうとも書かれています「表貢(上表進貢)した物には全く珍異(珍宝異物)がないので、伝えられた内容が誤っている(または「誇張されている」)疑いがある(疑伝者過焉)」。
本当にローマ皇帝が派遣した使者だったのかどうかも明らかではないようです。
 
[十七] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月、光禄勳汝南の人宣酆(『資治通鑑』胡三省注によると、宣氏は諡号から生まれた氏です)を司空に任命しました。
『孝桓帝紀』の注によると、宣酆の字は伯応で、東陽亭侯に封じられました。
 
[十八] 『後漢書桓帝紀』は本年十二月に「洛(雒)城傍の竹柏が枯傷した」と書いていますが、恐らく二年前延熹七年・164年)の誤りです(上述の襄楷の上書参照)
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
越騎校尉竇武を城門校尉に任命しました。
 
竇武が官位にいた時は、多くの名士を招き、身を清めて悪を憎み、礼賂(賄賂)も拒絶しました。妻子の衣食は充足できるだけとし(最小限にし)、両宮(天子と皇后)からの賞賜は全て太学の諸生に分け与えたり貧民に施したため、衆誉(世論の称賛)が竇武に帰しました。
 
[二十] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
張奐が戻ってくると聞いた匈奴烏桓が相次いで帰順しました。併せて二十万口に上ります。
張奐は首悪を誅殺しただけで、他の者は全て慰撫して投降を受け入れました。
鮮卑だけは塞外に出て去ります。
 
朝廷は鮮卑の檀石槐を制御できないことを憂い、使者を派遣しました。印綬をもって王に封じさせ、鮮卑と和親しようと欲します。
いかし檀石槐は拒否してますます激しく寇抄(侵略略奪)しました。
 
鮮卑はその地を三部に分けました。右北平以東で遼東に至り、夫餘、濊貊に接する二十余邑を東部、右北平以西で上谷に至る十余邑を中部、上谷以西で敦煌烏孫に至る二十余邑を西部とし、それぞれに「大人」を置いて管理させます。
資治通鑑』胡三省注は「これを見ると夷狄にも邑居(村里の家。定住用の家)があったようだ。檀石槐は匈奴の故地をほぼ全て所有した」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。