東漢時代264 桓帝(四十二) 党人釈放 167年(1)

今回は東漢桓帝永康元年です。二回に分けます。
 
東漢桓帝永康元年
丁未 167
六月に改元します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、東羌の先零が祋を包囲して雲陽を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、二県とも左馮翊に属します。
 
当煎諸種(諸族)もまた反しましたが、段熲が鸞鳥(地名)で撃って大破し、西羌が平定されました。
 
安定、北地、上郡、西河に住む羌を「東羌」、隴西、漢陽から金城塞外に住む羌を「西羌」といいます。当煎羌は金城郡西部から境外に住むので(『中国歴史地図集(第二冊)』参考)、西羌に当たります。
先零は安定郡に住んでいたので桓帝延熹九年166年参照)東羌になります。但し西漢時代は先零羌も金城郡西部に居り、西羌に属しました。
 
後漢書桓帝紀』は春正月に「先零羌が三輔を侵したが中郎将張奐がこれを破って平定した。当煎羌が武威を侵したが護羌校尉段熲が鸞鳥(『孝桓帝紀』の注によると武威郡に属します)まで追撃して大破した。西羌が全て平定された」と書き、冬十月にも「先零羌が三輔を侵した。使匈奴中郎将張奐がこれを撃破した」と書いています。
張奐が先零羌を破った件は、『資治通鑑』は十月だけに書いており、正月の部分は削除しています。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夫餘王夫台が玄菟を侵しましたが、玄菟太守公孫域が撃破しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、先零羌が三輔を侵し、両営を攻め滅ぼして千余人を殺しました。
資治通鑑』胡三省注は「両営」を京兆虎牙営と扶風雍営としています。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
五月丙申(十四日)、京師と上党で地が裂けました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
廬江賊が起きて郡界内を侵しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月壬子晦、日食がありました。
桓帝が詔を発して公卿、校尉に賢良方正の士を推挙させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
陳蕃が罷免されてから、朝臣が震撼戦慄しました。敢えて再び党人のために発言する者がいなくなります。
そこで賈彪が言いました「私が西行しなかったら、大禍が解けない。」
資治通鑑』胡三省注によると、賈彪は潁川定陵の人です。潁川から雒陽へは西に向かうことになります。
 
賈彪は雒陽に入ってから城門校尉竇武、尚書魏郡の人霍諝等を説得して党人のために訴えさせました。
 
竇武が上書しました「陛下が即位して以来、いまだ善政を聞かず、常侍黄門が競って譎詐(欺瞞、詐術)を行い、妄りに相応しくない者に爵位を与えています(妄爵非人)。伏して西京を尋ねるに西漢の前例を考察するに)(西漢)佞臣が執政して最後は天下を喪いました。今は前事の失(往時の失敗)を考慮せず、再び覆車の軌を巡っているので、臣は二世(秦二世皇帝)の難が将来必ずまた及んで、趙高の変が時間の問題(不朝則夕)であることを恐れます。最近は姦臣牢脩が党人の議を造り出したため(造設党議)、前司隸校尉李膺等を収めて逮考し(逮捕拷問し)、牽連する者が数百人に及びましたが、長い時を経て拘留しても、この事に効験(結果。成果。ここでは確実な証拠)がありません(曠年拘録,事無效験)。臣が思うに、李膺等は忠を建てて節を堅持し(建忠抗節)、王室の経営を志しているので(志経王室)、これは誠に陛下にとって稷、(契)、伊、呂の佐(后稷、契、伊尹、呂尚のような輔佐の大臣)であります。ところが虚しく姦臣賊子の誣枉(讒言)に遭っているので、天下が心を寒くし、海内が失望しています。陛下が心を留めて明察し(留神澄省)、すぐに道理を見て釈放することで(時見理出)、人鬼(『資治通鑑』では「神鬼」ですが、『後漢書竇何列伝(巻六十九)』では「人鬼」です。ここは『後漢書』に従いました)の喁喁の心(期待の心)を厭することを願います(人鬼の期待を満足させることを願います)
今、台閣の近臣では、尚書朱㝢、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳等が皆、国の貞士、朝(皇帝)の良佐であり(『後漢書竇何列伝』は「尚書陳蕃、僕射胡広、尚書・朱㝢、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳等」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、当時、陳蕃と胡広は尚書の令僕にいないので、『資治通鑑』では二人とも省略されています)尚書張陵、嬀皓(『資治通鑑』胡三省注によると、嬀氏は帝舜の後代です)、苑康(『資治通鑑』胡三省注によると、苑氏は商武丁の子が苑に封じられたため、邑名を氏にしました。『左伝』では斉に大夫苑何忌がいます)、楊喬、辺韶(『資治通鑑』胡三省注によると、辺氏の祖は宋平公の子戍で、字が子辺でした。また、『左伝』では周に大夫辺伯がいました)、戴恢等は文質彬彬(挙止が端正で礼がある様子)として国典に明達(精通)しています。
このように内外の職において群才が並列しているのに、陛下は近習に委任して専ら饕餮(伝説の猛獣。貪婪惨忍な人の喩えとして使います)を樹立し、外では州郡を典じさせ(管理させ)、内では心膂(中枢)を形成させています(内幹心膂)(このような者は)順に罷免排斥したうえで罪を裁いて糾罰し(糾弾処罰し。原文「宜以次貶黜案罪糾罰」)、忠良を信任して臧否を平決し(善悪を評決・分別し)、邪正毀誉にそれぞれ帰すべき場所を得させ(使邪正毀誉各得其所)、天官(官位)を大切にして善人だけに(官位を)授けるべきです(宝愛天官唯善是授)。そうすれば咎徵(災異)を消して天応を待つことができます。
最近、嘉禾、芝草、黄龍が出現しました(『後漢書桓帝紀』は本年八月に書いていますが、この上書は六月の大赦より前に行われています。時間が合いません)。瑞(瑞祥)は必ず嘉士によって生まれ、福が至るのは実に善人によるものです(善人によって福が至ります)。徳があれば瑞となり、徳がなければ災となります。陛下の行いは天意に合わないので、慶祝するべきではありません(不宜称慶)。」
竇武は上書を終えると病を理由に城門校尉と槐里侯の印綬を返上しました。
 
霍諝も党人のために上書しました
そのおかげで桓帝が若干怒りを解きます。
 
桓帝中常侍王甫を派遣して獄中で党人范滂等を審問させました。
范滂等は皆、三木囊頭(『資治通鑑』胡三省注によると、「三木」は頭、手、足に刑具をつけること、「囊頭」は布等を使って頭を覆うことです)という姿で階下に曝されています。
王甫が順に詰問しました「卿等は互いに推挙し合い(更相抜挙)、重なり合って唇歯となっているが(唇と歯の関係のように助け合っているが。原文「迭為脣歯」)、その意はどうだ(何を企んでいるのだ。原文「其意如何」)?」
范滂が言いました「仲尼の言に『善を見たらすぐに学び、悪を見たらすぐに避ける(原文「見善如不及,見悪如探湯」。『論語』の言葉です。「見善如不及」を直訳したら「善を見たら及ばないようだ」ですが、「善を見たら、自分が足りていない時のように、善に及ぶために努力する」という意味になります。「見悪如探湯」を直訳したら「悪を見たら湯を探るようだ」ですが、「悪を見たら熱湯に手を入れた時のようにすぐひっこめる」「悪からはすぐに逃げる」という意味になります)』とある。滂(私)は善人とその(善人の)清廉を奨励させ、悪人とその(悪人の)汚れを憎ませようとした(使善善同其清,悪悪同其汙)。これは王政が聞きたいところだと思っていたが(朝廷はこのようなことを聞きたいはずだと思っていたが)、図らずも党(徒党)とみなされてしまった(謂王政之所願聞,不悟更以為党)。古の人が善を修めたら自ら多くの福を求めることになったが(善を修めることで多くの福を得られたが)、今は善を修めると身が大戮に陥れられる。この身が死ぬ日は滂(私)を首陽山の側に埋めることを願う。上は皇天を裏切らず、下は夷(伯夷と伯斉。商末周初の賢人で、首陽山で隠居して餓死しました)に恥じることがない(上不負皇天,下不愧夷斉)。」
 
王甫は愍然(憐憫の様子)を示して顔色を改め、全ての桎梏(刑具。『資治通鑑』胡三省注によると、桎は手枷、梏は足枷です)を解きました。
 
また、李膺等が供述において多くの宦官の子弟を牽連させたため(宦官の子弟の悪事を供述したため)、懼れを抱いた宦官が桓帝に対して天時を理由に赦免するように請いました(五月壬子晦に日食がありました。上述)
 
六月庚申(初八日)、天下に大赦して延熹十年から永康元年に改元しました。
党人二百余人は全て田里に帰され、名を三府に記録して終身禁固に処されました(書名三府禁錮終身)
 
後漢書桓帝紀』は前年の最後に「司隷校尉李膺等二百余人が誣(誣告)を受けて党人となり、並んで(罪に)坐して獄に下され、王府に名が記録された(書名王府)」と書き、本年に「六月庚申、天下に大赦し、党錮(党人の罪)を全て除いて永康に改元した」と書いていますが、『資治通鑑』は「書名王府」の「王府」を「三府」に改め、昨年ではなく本年の大赦後に置いています。
 
本文に戻ります。
范滂が霍諝に遇いに行きましたが、謝意を示しませんでした。
ある人が范滂を譴責すると、范滂はこう言いました「昔、叔向は祁奚に会わなかった(晋が叔向を捕えた時、祁奚が命乞いをして助けましたが、祁奚は叔向に会わず、叔向も釈放されたことを祁奚に報告せずに入朝しました。東周霊王二十年552年参照)。私がなぜ謝すのだ(吾何謝焉)。」

范滂は南の汝南に帰りました。南陽の士大夫で出迎えた者の車が千両(輌)を数え、郷人の殷陶と黄穆が范滂の傍で侍衛して賓客の応対をしました(『後漢書党錮列伝(巻六十七)』によると殷陶と黄穆も捕えられており、范滂と共に釈放されて故郷に帰りました)
しかし范滂は殷陶等に「今、子(汝等)が私に従ったが、これは私の禍を重くすることになる(今子相隨,是重吾禍也)」と言い、還郷に逃げ帰りました。
 
 
 
次回に続きます。