東漢時代265 桓帝(四十三) 桓帝の死と霊帝 167年(2)

今回は東漢桓帝永康元年です。桓帝時代が終わります。
 
[(続き)] 『資治通鑑』からです。
以前、桓帝詔書を発して鉤党(党人)を検挙させた時、郡国の上奏によって連座した者が、多い場所では百人を数えました。しかし平原相史弼だけは誰も検挙報告しませんでした。
詔書が前後して平原の州郡に迫切し(党人の逮捕を強要し)、掾史が髠笞(髪を剃る刑や笞打ちの刑)に処されます。
従事青州刺史の従事です。平原は青州に属します)が伝舍(客舎)に坐って史弼を譴責しました「詔書は党人を疾悪(憎悪)しており、その旨意は懇惻(懇切痛切)である青州六郡(『後漢書郡国志四』によると、青州には済南、平原、楽安、北海、東莱、斉の六つの郡国がありました)において五つには党があったのに(党人がいたのに)、平原だけはどのように治めて(党人が)居らずにいられたのだ(なぜ平原だけは党人がいないのだ。原文「平原何治而得独無」)?」
史弼が言いました「先王が天下を疆理(境界を正すこと)し、界を画して境を分けました。水土は等しくなく、風俗は同じではありません(水土異斉,風俗不同)。他の郡には自ずからあり、平原には自ずからないことを、どうして比較できるでしょう(他郡自有,平原自無,胡可相比)。もしも上司に承望(迎合)して良善を誣陷(讒言)し、刑罰を妄りに行い(淫刑濫罰)、そうすることで非理(道理がないこと)を実現させたら(以逞非理)、平原の人(民)は各戸が党になります。相(史弼。私)に死があるだけであり、そのような事はできません。」
従事は激怒して郡の僚職(『資治通鑑』胡三省注によると、郡の諸曹掾史を指します)を逮捕し、獄に送りました。その後、史弼に対する弾劾の上奏をします。
しかしちょうど党禁が途中で解かれたため、史弼は俸禄を使って贖罪しました。
史弼のおかげで禍から逃れた者は大勢いました。
 
竇武が推挙した者に、沛の人朱㝢、勃海の人苑康、会稽の人楊喬、陳留の人辺韶がいました。
楊喬は容儀が偉麗(偉壮美麗)で、しばしば政事について上書したたため、桓帝がその才貌を愛して公主を嫁がせようとしました。
しかし楊喬は固く辞退します。
桓帝がそれを許さなかったため、楊喬は口を閉ざして何も食べず、七日後に死にました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
丙寅(十四日)、阜陵王劉統が死にました。
 
劉統の諡号は孝王です。
阜陵王は光武帝の子劉延(質王)の家系です。劉延の子劉沖(殤王)、劉沖の兄劉魴(頃王)、劉魴の子劉恢(懐王)と続き、劉恢の子劉代(節王)に後嗣がいなかったため途絶えていましたが(沖帝永嘉元年145年参照)桓帝建和元年147年)に劉代の兄劉便(または「劉便親」)が改めて阜陵王になりました。劉便の諡号は恭王です。
劉便の子が劉統(孝王)で、『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉統の死後は子の劉赦(『補後漢書年表』では「劉赧」です)が継ぎました。
劉赦は献帝建安年間に死に、子がいなかったため国が除かれました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
秋八月、魏郡が「嘉禾が生えた」「甘露が降った」と報告しました。
 
[] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
巴郡が「黄龍が現れた」と報告しました。
 
以前、郡の人が池で水浴びをしようとした時、池の水が濁っているのを見ました。
そこで人々はお互いを嚇かすために冗談で「この中には黄龍がいる」と言いました。
これが民間に広がり、太守が美事とみなして朝廷に報告しました。
郡吏傅堅が諫めて「これは走卒(奴僕)の戯言に過ぎません(此走卒戲語耳)」と言いましたが、太守は聴きませんでした。
こうして「黄龍が現れた」という報告がされ、記録に残されました。
 
[十一] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
六州(『資治通鑑』は「六月」と書いていますが、『後漢書桓帝紀』では「六州」で、『後漢書五行志三』も「八月、六州で大水」と書いているので、『資治通鑑』の誤りです)で大水(洪水)があり、渤海が溢れました。
 
桓帝が州郡に詔を発しました。七歳以上で溺死した者に一人当たり銭二千を下賜し、一家が全て害を被った者は(州郡に)收斂(死体を棺に納めること)させます。また、穀食(穀物食糧)を失った者には一人当たり三斛の食糧を与えました。
 
[十二] 『後漢書桓帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、先零羌が三輔を侵しましたが、使匈奴中郎将張奐が司馬尹端と董卓を派遣して対抗し、羌人を撃って大破しました。酋豪を斬り、首虜(首級と捕虜。または首級)が一万余人に上ります。
こうして三州が清定(平定)されました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時、張奐は幽涼三州を監督していました(督幽并涼三州)
 
張奐の功績は封侯に値しましたが、宦官に従わなかったため、銭二十万を下賜されて家から一人が郎に任命されただけでした。
張奐はこれを辞退し、弘農に属すこと(弘農への移住)を請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、張奐は燉煌敦煌淵泉の人です。
旧制では辺人が内地に移ることを許可していませんでしたが、張奐には功績があったため、桓帝は詔を発して特別に許可しました。
 
朝廷は董卓を郎中に任命しました。
董卓は隴西の人で、性格が粗猛で智謀があったため、羌胡に畏れられました。
 
[十三] 『後漢書桓帝紀』からです。
十一月、西河が「白菟が現れた」と報告しました。
「白菟」は「白兎」です。吉祥だと思われます。あるいは「白虎」かもしれません。
 
[十四] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月壬申(二十三日)、癭陶王劉悝桓帝の弟)勃海王に戻しました延熹八年165年参照)
 
[十五] 『後漢書桓帝紀』『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁丑(二十八日)桓帝が徳陽前殿で死にました。三十六歳でした。
 
戊寅(二十九日)、竇皇后を尊んで皇太后にしました。太后が政治を行います太后臨朝)
 
竇氏は皇后に立ってからも御見(御幸)が非常に少なく、采女田聖等だけが寵愛を受けていました。
竇氏はもとから忌忍(嫉妬深くて惨忍)だったため、桓帝の梓宮(皇帝の棺)がまだ前殿にあるうちに田聖を殺してしまいました。
 
城門校尉竇武(竇太后の父)が立嗣(後嗣擁立)を議し、侍御史河間の人劉鯈(『資治通鑑』では「劉鯈」ですが、『後漢書・孝霊帝紀』では「劉儵」です)を招いて国中の宗室における賢者について問いました。
劉鯈は解瀆亭侯劉宏を称賛します。
劉宏は河間孝王劉開(章帝の子)の曾孫です。祖父は劉淑、父は劉萇といい、代々、解瀆亭侯に封じられてきました。当時は劉萇が死んで劉宏の代になっています。劉宏の母は董夫人といいます。
 
竇武が入宮して竇太后に報告し、禁中で策を定めました。
劉鯈を守光禄大夫(光禄大夫代理)に任命し、中常侍曹節と共に持節を持って、中黄門虎賁左右羽林千人を率いて劉宏を迎えさせます(『後漢書霊帝紀』は「河閒(河間)に迎えに行かせた」と書いていますが、『資治通鑑』は「河間」を省いています。『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、解瀆亭は河間ではなく中山国に属しています)
劉宏はこの時十二歳でした。翌年、京師に入って正式に即位し、霊帝と呼ばれます。
 
『孝霊帝紀』の注が桓帝時代の初めに流行った童謡を紹介しています「城上烏,尾畢逋。父為吏,子為徒。一徒死,百乗車。車班班,入河閒。河閒奼女工数銭,以銭為室金為堂。石上慊慊舂黄梁。梁下有懸鼓,我欲撃之丞卿怒」です。
「城上烏,尾畢逋」は、城壁の上にいる烏が尻尾を振る姿で、「高い所に居座って一人で食を貪り、下の者と共にしない」という意味です。人主(皇帝。桓帝が税を増やして財を集めていることを表します。
「父為吏,子為徒」は、「異民族の叛乱等で戦争が絶えないため、父が軍吏になり、その子弟も卒徒(兵)になって出征している」という意味です。
「一徒死,百乗車」は、「前の一人が出征して死んだら、更に百乗の車を出陣させる」という意味です。
「車班班,入河閒」は「多数の車が河間に入って霊帝を迎える」という意味です。「班班」は車が連なる様子です。
「河閒奼女工数銭,以銭為室金為堂」の「河閒奼女」は「河間の美女」で、霊帝の母太后(董夫人)を指します。『後漢書五行志一』の注によると、「奼女」を「妖女」とすることもあります。「工」は「得意」です。よって、「河閒奼女工数銭,以銭為室金為堂」は、「董太后は金銭の管理が得意で、金銭を使って室(部屋)を満たし、黄金を使って堂正室を満たしている(または金銭黄金で堂室を造っている)」という意味です。
「石上慊慊舂黄梁」の「慊慊」は不満、空虚な様子です。「石上」は恐らく殿上です。よって「石上慊慊舂黄梁」は、「殿上の董太后は財貨を集めてもまだ不満で、使用人に黄梁(恐らく粗末な食べ物を意味します)を打たせている」「財貨がいくら溜まっても不満なので、食事を節約している」という意味です。
「梁下有懸鼓,我欲撃之丞卿怒」は、「梁の下に鼓がかけられているので、それを叩いて訴えようとしても、丞卿が逆に怒って訴えを退ける」という意味です。董夫人が霊帝に官位を売らせたため、相応しくない人材が高位に就き、忠臣が冷遇されました。
この童謡は桓帝から霊帝の時代にかけて腐敗がますますひどくなることを歌っています。
 
[十六] 『後漢書桓帝紀』からです。
この年、博陵、河閒(河間)二郡の税を免じて豊、沛と同等にしました(復博陵、河閒二郡,比豊、沛)
 
博陵郡には桓帝の父劉翼の陵墓がありました桓帝延熹元年158年参照)
当時の河間王は安王劉利で桓帝元嘉元年151年参照)桓帝霊帝にとって大宗に当たります。桓帝は章帝の曾孫、河間孝王劉開の孫、蠡吾侯劉翼の子で、霊帝は章帝の玄孫、河間孝王劉開の曾孫、解瀆亭劉淑の孫、劉萇の子です。
 
 
 
次回に続きます。