東漢時代266 霊帝(一) 霊帝即位 168年(1)

今回から東漢霊帝の時代です。
 
孝霊皇帝
名を劉宏といいます。章帝の玄孫で、河間孝王劉開の曽孫です。祖父の劉淑と父の劉萇は代々解瀆亭侯に封じられ、劉萇の死後、劉宏が侯爵を継ぎました。劉宏の母は董夫人です。
 
桓帝永康元年167年)十二月、桓帝が死にました。
桓帝に子がいなかったため、皇太后(竇氏)が父の城門校尉竇武と共に禁中で策を定め、守光禄大夫劉儵(『後漢書・孝霊帝紀』では「劉儵」ですが、『資治通鑑』では「劉鯈」です)を派遣して劉宏を迎えさせました。
 
 
戊申 168
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月壬午(初三日)、城門校尉竇武を大将軍に任命しました。
また、前太尉陳蕃を太傅に任命し、竇武、司徒胡広と共に参録尚書事にしました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は「桓帝延熹九年166年)四月戊寅、特進竇武を大将軍にした。竇武は病を理由に固く辞退して数十回にも及んだが(移病固譲至于数十)桓帝が同意しなかった」と書いています。
しかし范瞱の『後漢書霊帝紀』は「建寧元年(本年)春正月壬午、城門校尉竇武を大将軍にした」と書いており、『後漢書竇何列伝(巻六十九)』でも桓帝の死後に大将軍になっているので、『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
 
「参録尚書事」は大臣が尚書の主管を兼任することです。『資治通鑑』胡三省注は、「三人いる場合は『参』という(三人謂之参)」と解説していますが、二人の時でも「参録尚書事」と書かれています(殤帝延平元年・106年の張禹と徐防、安帝延光四年・125年の馮石と劉熹、順帝永建元年・126年の桓焉と朱寵、順帝建康元年・144年の趙峻と李固、霊帝中平六年・189年の袁隗と何進等です
 
後漢書霊帝紀』では霊帝が正式に即位した後、陳蕃が太傅に任命され、竇武、胡広と共に「参録尚書事」になっていますが、『後漢書・陳王列伝(巻六十六)』では即位前に陳蕃が太傅尚書事として諸尚書を譴責しています(下述)。『資治通鑑』胡三省注は「『列伝』が正しい」と判断しています。
 
本文に戻ります。
当時は大喪に遭ったばかりで国嗣(国の後継者)がまだ即位していなかったため、諸尚書が懼れを抱き、多くの者が病を理由に入朝しませんでした。
そこで陳蕃が書を送って諸尚書を譴責しました「古人は節を立てて(主が)亡くなっても存命中のように仕えたものだ(古人立節事亡如存)。今は帝祚(帝位)がまだ立たず、政事が日々緊迫している(日蹙)。諸君はどうして荼蓼の苦(「茶」は苦いこと、「蓼」は辛いことです。辛苦困難を表します)を棄てて寝床で休息しているのだ(諸君柰何委荼蓼之苦,息偃在牀)。義において安逸でいられるのか(於義安乎)!」
尚書は怖れて起ちあがり、政務を行うようになりました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
己亥(二十日)、解瀆亭侯劉宏が夏門亭に到りました。
『孝霊帝紀』の注によると、劉宏は夏門外の万寿亭に至り、群臣の謁見を受けました。
 
(竇太后が)竇武に符節を持たせ、王青蓋車(皇子が封王された時に下賜される車)で劉宏を殿中に迎え入れさせました。
 
庚子(二十一日)、劉宏が正式に皇帝の位に即きました。これを霊帝といいます。
桓帝の年号である永康二年から建寧元年に改元しました。
 
後漢書霊帝紀』は霊帝の年を十二歳としていますが、中平六年(189)に三十四歳で死ぬので、本年168年)は十三歳のはずです。
 
また、『後漢書霊帝紀』はここで「前太尉陳蕃を太傅に任命し、竇武および司徒胡広と共に尚書の政務を主管させた(参録尚書事)」と書いていますが、『資治通鑑』は霊帝が正式に即位する前の出来事としています(上述)
 
[] 『後漢書霊帝紀』はここで「護羌校尉段熲に先零羌を討たせた」と書き、二月に「段熲が逢義山で先零羌を大破した」と書いています。『資治通鑑』は二月以降にまとめて書いています(下述)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月辛酉(十三日)、孝桓皇帝を宣陵に埋葬しました。廟号は威宗です。
『孝霊帝紀』の注によると、宣陵は洛陽(雒陽)東南三十里の地にありました。高さ十二丈、周囲三百歩です。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
庚午(二十二日)霊帝が高廟を拝謁しました。
辛未(二十三日)、世祖廟を拝謁しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
同日(辛未二十三日)、天下に大赦しました。
民にそれぞれ差をつけて爵と帛を下賜しました。
 
 
 
次回に続きます。