東漢時代 郭泰 仇香(前)

東漢桓帝延熹七年164年)に黄瓊が死に、多くの名士が集まりました。

東漢時代251 桓帝(二十九) 南巡 164年(1)

 
資治通鑑』が郭泰、仇香等の故事を書いているので、ここで二回に分けて紹介します。
 
以前、黄瓊が家で学問を教授していた時、徐穉が黄瓊に従って大義(道理。または学問の要旨)を尋ねました(従之咨訪大義
黄瓊が尊貴な位に登ってからは、関係を絶って交わらなくなりましたが、延熹七年に黄瓊が死ぬと、徐穉は弔問に訪れ、酒を地に撒いて黄瓊を祀ってから(進酹)哀哭して去りました。徐穉を知る者は誰もいません。
 
諸名士が喪宰(喪を主宰する者)に問うと、喪宰はこう言いました「先ほど、一書生が来ました。衣服は粗薄で、哭して悲哀でしたが(衣麤薄而哭之哀)、姓と字は記していません。」
人々は「徐孺子に違いない(孺子は徐穉の字です。原文「必徐孺子也」)」と言い、弁舌が得意な者を選んで後を追わせました。
陳留の人茅容が軽騎を駆けさせ、道中で徐穉に追いつきます。
茅容は酒や肉を買って(沽酒市肉)徐穉と飲食しました。
茅容が国家の事を質問しても徐穉は答えませんでしたが、話題を変えて稼穡(農業)の事を質問すると答えました。
茅容が帰ってからこれを諸人に話しました。
ある人が言いました「孔子は『ともに言うべきであるのに言わなかったら人を失う(話をするべき相手と話をしなかったら人を失う。原文「可與言而不與言,失人」。『論語』の言葉です)』と言った。それでは孺子(徐穉)は人を失ったのではないか(然則孺子其失人乎)?」
太原の人郭泰が言いました「それは違う(不然)。孺子の為人は清潔高廉で、飢えても食物を(人から)得ることがなく、寒くても衣を得ることがない(飢不可得食,寒不可得衣)。それでも季偉(茅容の字です)と酒を飲んで肉を食べたのは、既に季偉の賢を知ったからだ。国事について答えなかったのは、智は及ぶことができても愚は及ぶことができないからだ。」
最後の部分の原文は「其智可及其愚不可及也」で、これも『論語』の言葉です。
かつて孔子が甯武子(衛国の大夫)を評価してこう言いました「甯武子は国に道があれば智となり、国に道がなければ愚となる。その知は及ぶことができるが、その愚は及ぶことができない(邦有道則知,邦无道則愚。其知可及也,其愚不可及也)。」
甯武子は政事が正しく行われている時は能力を発揮しましたが、政治が乱れた時は敢えて愚者のふりをして政事から遠ざかり、時機を待ちました。孔子は「甯武子の知(智。能力)は他の人も達することができるが、愚(愚者のふりをして退く姿)は他の人には真似ができない」と評価しました。
郭泰は徐穉を甯武子に譬えています。「(徐穉が)国事について答えなかったのは、智は及ぶことができても愚は及ぶことができないからだ」という言葉は、「徐穉は甯武子と同じように賢人だから、今の乱れた世においては、農事は語っても国事に対しては愚の姿勢を貫いたのだ。彼の知(語った事。農事)には我々も及ぶことができるが、彼の愚(語らなかったこと。政事に対する姿勢)には我々が及ぶことはできない」と解釈できます。
 
郭泰は博学で談論を得意としました。
かつて雒陽で周遊した時、人々は郭泰を知りませんでしたが、陳留の人符融(符が氏です。「符」に似た氏で「苻」もあります)が一見してその異才を称嘆し、河南尹李膺に紹介しました。
李膺が郭泰に会って言いました「私が見てきた士は多いが、今まで郭林宗(林宗は郭泰の字です)のような者はいなかった。その聡識(聡明で記憶力が優れていること)通朗(道理に通じていること)、高雅(教養があって優雅なこと)密博(周密かつ博学なこと)は、今の華夏(中華)において匹敵する者がほとんどいない(鮮見其儔)。」
李膺が郭泰を自分の友にしたため、郭泰の名が京師を震わせました。
 
後に郭泰が郷里に還ることになりました。衣冠(官員や名士)諸儒が黄河まで送り、その車は数千輌を数えます。しかし李膺だけが郭泰と同じ舟で河を渡りました(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽から太原に帰るには黄河を渡って西北に向かいます)。衆賓(集まった賓客)はその様子を眺めて神仙のようだと思いました。
 
郭泰は元々人を知る能力があり(性明知人)、士類文人の総称)を奨訓(奨励訓導)するのが好きだったため、郡国を周遊して優秀な人材に学問を勧めました。
茅容は四十余歳で田野を耕していました。等輩(同輩。仲間)と樹木の下で雨を避けた時、皆は足を伸ばしたまま座って向き合いましたが(夷踞相対)、茅容だけは正座してますます恭敬な姿勢をとりました(危坐愈恭)
それを見た郭泰は茅容が常人ではないと思い、寓宿を請いました(茅容の家で宿泊することを請いました)
旦日(翌朝)、茅容が雞()を殺して饌(料理)を作りました。郭泰は自分のために設けられた料理だと思いましたが、茅容は鶏を半分に分けて母の食事とし、余った半分の鶏は収蔵しました。茅容自身は草蔬(粗末な野菜)で料理を作って客(郭泰)と食事を共にします。
郭泰が言いました「卿(あなた)の賢は(常人から)遠く離れている(卿賢哉遠矣)。郭林宗()なら三牲の具(『資治通鑑』胡三省注によると、親を養う料理です)を減らしてでも賓旅(賓客)をもてなすが、卿はこのようにした。私の友である(郭林宗猶減三牲之具以供賓旅而卿如此,乃我友也)。」
郭泰は立ち上がって茅容に揖礼し、学問を身につけるように勧めました。
そのおかげで茅容は盛徳の人(徳行がある人)になりました(卒為盛徳)
 
鉅鹿の人孟敏が太原に客居していました。
ある時、孟敏が担いでいた甑(炊事に使う瓦器)を地面に落としてしまいましたが、孟敏は振り向きもせずに去りました。
それを見た郭泰が理由を問うと、孟敏はこう答えました「甑は既に破損したので見ても益がありません(見ても意味がありません。原文「甑已破矣,視之何益」)。」
郭泰は孟敏に分決(決断)の能力があると思って会話をしました。その結果、孟敏の徳性(生まれ持った品性、道徳)を知り、游学するように勧めます。
孟敏はそのおかげで当世に名が知られるようになりました。
 
陳留の人申屠蟠は家が貧しく、人に雇われて漆工になりました。
鄢陵(『資治通鑑』胡三省注によると、鄢陵は潁川郡に属す県です)の人庾乗は若い頃、県廷で働いて門士(門卒)になりました。
郭泰は二人を見て他の者とは異なると判断しました(見而奇之)
果たして後に二人とも名士になりました。
 
他にも屠沽(酒売り)や卒伍(士卒)の出身で、郭泰の奨進(奨励と推薦)によって名を成した者は大勢いました。
 
陳国の童子魏昭が郭泰に「経師には遇うのが容易ですが、人師には遇うのが難しいものです(原文「経師易遇,人師難遭」。「経師」は経典を教える師、「人師」は人の生き方を教える模範となるべき師です)(郭泰の)左右に仕えて灑掃(庭に水をまいたり掃除をすること)することを願います(願在左右供給灑掃)」と請いました。
郭泰はこれに同意しました。
ある時、郭泰が体調を壊したため、魏昭に粥を作らせました。
粥ができてから魏昭が郭泰に進めましたが、郭泰は叱咤してこう言いました(呵之曰)「長者のために粥を作りながら意を加えて敬わなかったから(長者に対して敬意を加えなかったから)、食べられなくなった(郭泰は魏昭の態度を観るため敢えて難癖をつけています。原文「為長者作粥,不加意敬,使不可食」)!」
郭泰は杯を地に投げ捨てました。
魏昭が改めて粥を作って進めましたが、郭泰はまた叱咤譴責します(復呵之)
同じことが三回繰り返されましたが、魏昭は態度も顔色も変えませんでした(厭な顔を見せず、何回も恭しく粥を作って運びました)
そこで郭泰が言いました「私は始めは子()の面()を見ていたが、今から後は卿の心を知った(吾始見子之面,而今而後知卿心耳)。」
郭泰は魏昭を友にして善遇するようになりました。



次回に続きます。