東漢時代 郭泰 仇香(後)

前回の続きです。

東漢時代 郭泰 仇香(前)

 
陳留の人左原は郡の学生になりましたが、法を犯したため排斥されました。
郭泰が路上で左原に遇い、酒肴(酒食)を設けて慰めました。
郭泰が言いました「昔、顔涿聚は梁甫の巨盗で、段干木は晋国の大駔(売買を仲介する人)だったが、最後は斉の忠臣になり、魏の名賢となった(『資治通鑑』胡三省注によると、顔涿聚は梁父(梁甫)の大盗でしたが、孔子に学びました。後に斉に仕えて黎丘で晋と戦った時に死にました。段干木は晋で売買を仲介していましたが、魏文侯に仕えて賢人として名が知られました)。蘧瑗(蘧伯玉。衛の賢人)顔回(孔子の高弟)でも過ちを無くすことはできなかった(尚不能無過)。他の者ならなおさらである。慎んで恚恨(怨恨)せず、我が身を責めるだけだ(慎勿恚恨責躬而已)。」
左原はこの言葉を受け入れて去りました。
ある人が「郭泰は悪人との関係を絶たない」と言って非難しましたが、郭泰はこう言いました「不仁の人を甚だしく憎んだら乱を招く。」
この原文は「人而不仁疾之已甚,乱也」で、『論語』の言葉です。「不仁の人を嫌って追いつめても乱を招くだけなので、憎むのではなく教化するべきだ」という教えです。
後に左原が突然憤怒を抱いて賓客を集め、諸生(郡の学生)に報復しようとしました。しかし当日、郭泰が学(郡の学校)にいたため、左原は前言を裏切ったことに慚愧して報復をあきらめ、その場を去りました。
後日、この事が明るみに出て人々は郭泰に謝服(感謝敬服)しました。
 
ある人が范滂に問いました「郭林宗とはどのような人ですか?」
范滂が答えました「隠居しても親に違えず(隠居しても親につかえることを忘れず。原文「隠不違親」。『資治通鑑』胡三省注は介推(介子推)のような人物としています)貞節があっても世俗から隔絶せず(原文「貞不絶俗」。『資治通鑑』胡三省注は柳下恵のような人物としています)、天子も(彼を)臣にできず、諸侯も(彼を)友にできない(天子不得臣,諸侯不得友)。私はその他の事を知らない(吾不知其他)。」
 
郭泰は以前、「有道」の士として推挙されましたが、応じませんでした。
同郡の宋沖はかねてから郭泰の徳に心服しており、漢元(漢建国)以来、匹敵できる者がいないと考えていたため、仕官を勧めたことがありました。
郭泰はこう言いました「私は夜に乾象(天象)を観て、昼に人事を察(観察)しているが、天の廃すところは(天が滅ぼそうとしているものは)支えることができない。私は優游(のんびり気ままな様子)と年月を過ごすだけだ(吾将優游卒歳而已)。」
しかし郭泰は京師に行き来し、休まず人々を教導して学問に誘いました。
徐穉が書を送って郭泰を戒めました「大木が倒れる時、一本の縄で繋ぐことはできない(大木将顛,非一縄所維)。なぜ栖栖(不安で忙しくする様子)として安寧な場所でゆっくりしないのだ(何為栖栖不遑寧処)。」
郭泰は道理を悟って「謹んでこの言を拝受し、師表(模範)とします(謹拜斯言以為師表)」と言いました。
 
済陰の人黄允は雋才(俊才)で名が知られていました。
郭泰が黄允に会って言いました「卿の高才は卓絶しているので偉器と成るに足りている(高才絶人足成偉器)。年が四十を過ぎたら声名が顕著になるだろう。しかしその際には自ら深く匡持(自分を正してそれを維持すること)するべきだ(当深自匡持)。そうしなければ(声名を)失うことになる。」
後に司徒袁隗が従女()のために壻を求めました。
袁隗は黄允に会うと嘆息して「このような壻を得られたら満足だ(得壻如是足矣)」と言いました。
それを聞いた黄允は妻を廃して家に帰らせました。『資治通鑑』胡三省注によると、黄允の妻は夏侯氏です。
黄允の妻は宗親を大勢集めて別れを告げることを請いました。
宗親が集まると、妻は人々の中で袂を振るって黄允の隠慝(隠し事。人に言えない悪事)十五事を数え上げてから去ります。
黄允はこれが原因で当時の人々から廃されました(名声が廃れました。原文「以此廃于時」)
 
以前、黄允と漢中の人晋文経は共にその才智のおかげで遠近に名が知られていましたが、徵辟(招聘)に応じませんでした。
二人は京師にいましたが、病を治しているという理由で賓客を通しませんでした。公卿大夫が門生を送って朝から日暮れまで病状を問い、郎吏が門前に座って混雑しても、やはり二人には会えません。
三公が誰かを辟召(招聘)する時はいつも二人を訪ねて意見を求め、その臧否(良否の評価)に従って決定しました。
符融が李膺に言いました「二子は行業(品行と功業)を聞いたことがないのに豪傑を自任しており(以豪桀自置)、その結果、公卿に疾(病状)を問わせ、王臣(朝廷の臣。郎吏)を門に座らせています。融(私)は彼等の小道(邪道)が義を破壊し、空誉が実に違えていること(虚名が実体に合っていないこと)を恐れます。特に察(観察・考慮)するべきです。」
李膺は納得しました。
この後、二人の名論(名望)はしだいに衰え、賓徒(賓客門徒も徐々に減少しました。
二人は旬日の間(十日の間。恐らく符融が李膺に進言してからの十日間です)に慚愧嘆息して逃げ去ります。
後に二人とも罪に坐して世間から棄てられました(以罪廃棄)
 
陳留の人仇香(『資治通鑑』胡三省注によると、仇氏は宋の大夫仇牧の後代です)は至行(品行が卓越していること)でしたが純嘿(純粋寡黙)だったため、郷党で知る者がいませんでした。
仇香は『後漢書循吏列伝(巻七十六)』に記述があり、こう書かれています「仇覧は字を季智といい、一名を香という。陳留考城の人である。若くして書生になった。淳默(純粋寡黙)で、郷里で知る者はいなかった」。
ここでは『資治通鑑』を元に「仇香」と書きます。
 
仇香は四十歳で蒲亭長になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、蒲亭は陳留郡考城県に属します。考城県はかつては菑県といいましたが、章帝がその名を嫌って考城に改めました。「菑」は「災」に通じ、「荒地」や「直立して枯れた樹木」という意味があります。
 
蒲亭に陳元という民がおり、母と二人だけで生活していました。
ある時、母が仇香を訪ねて陳元の不孝を訴えました。
仇香が驚いて言いました「私が最近、陳元の舍(家)を通った時は、廬落(家屋。または家と庭)が整頓されていて耕耘(農業)も時に順じていました。彼は悪人ではなく、きっと教化が行き届いていないだけのことです。母(あなた)は寡を守って孤を養い寡婦として父がいない子を養い)、身を苦にして老齢に臨んだのに(苦身投老)、どうして一日の忿(怒り)によって歴年の勤(勤労辛苦)を棄てるのですか。そもそも母が人の遺孤(夫が遺した子)を養って成済(成就)させられなかったら、しかももし死者(亡夫)に知(知覚)があるとしたら、百歳の後に(あなたが死んでから)どうして亡者(亡夫)に会えるでしょう。」
母は涕泣して立ちあがりました(去りました)
その後、仇香は自ら陳元の家を訪ね、禍福の言(禍福の故事、道理)を譬えに使って人倫孝行について述べました。その結果、陳元は感悟して孝子になりました。
 
考城令河内の人王奐が仇香を主簿に任命しました。
後漢書循吏列伝』によると、王奐の政治は厳猛を重視していました。仇覧(仇香)が徳によって人を教化したと聞き、敢えて主簿にしました。
 
王奐が仇香に言いました「聞いたところによると、蒲亭にいた時、陳元を処罰せず教化したというが(不罰而化之)、鷹鸇の志が少なかった(足りなかった)のではないのか?」
「鷹鸇」は鷹や隼のような獰猛な鳥です。「鷹鸇の志」というのは厳しい政治を行う意志、勇気を指します。
 
仇香が答えました「鷹鸇は鸞鳳に及ばないと考えているので、そうしなかったのです。」
「鸞鳳」は鸞鳥や鳳凰で、伝説の神鳥です。
 
張奐は「枳棘(棘がある樹木)の林は鸞鳳が止まる所ではなく、百里百里四方の地。「県」を意味します)は大賢の路ではない(枳棘之林非鸞鳳所集,百里非大賢之路)」と言うと、一月の奉(俸禄)を資金として仇香に与え、太学に入らせました。
 
ある時、郭泰と符融が刺(名刺)を持って仇香を拝謁し、それを機に留宿(宿泊)しました。
翌朝、郭泰は起きると牀(寝床)から下りて仇香を拝し、「君(あなた)は泰(私)の師です。泰の友ではありません」と言いました。
 
仇香は学び終えてから郷里に帰りました。
たとえやることがない暇な時でも必ず衣服を正し、妻子は厳君(厳しい国君)に仕えるように仇香に接します。妻子に過ちがあったら仇香が冠を脱いで自責し、妻子は庭で謝罪して過ちを反省しました。仇香が冠を被ってから、妻子はやっと堂(正房。正室に登ることができます。
仇香は喜怒による声色の違いを見せたことがありませんでした。
徵辟(招聘)に応じることなく、後に家で死にました。
 
後漢書循吏列伝』によると、仇香は「方正」の士として朝廷に召されましたが、病を患って死にました。三子がいてそれぞれ文史の才がありましたが、中でも少子の仇玄が最も名を知られました。