東漢時代267 霊帝(二) 段熲の遠征 168年(2)

今回は東漢霊帝建寧元年の続きです。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
昨年、護羌校尉段熲が西羌を平定しましたが、東羌の先零等の種族はまだ服従していませんでした。
度遼将軍皇甫規、中郎将張奐が年を連ねて招降しても、東羌は投降と離反を繰り返します。
資治通鑑』胡三省注が当時の状況を簡単に説明しています。桓帝延熹四年161年)に皇甫規が東羌を招いて帰順させ、延熹六年(163)に皇甫規が張奐を推挙しました。しかし延熹四年から桓帝永康元年167年)までの七年間、羌族は叛服無常(離反と服従を繰り返すこと)な状態でした。
 
桓帝が詔を発して段熲に問いました「先零、東羌が悪を為して叛逆しているが(造悪反逆)、皇甫規と張奐はそれぞれ強衆(強い軍隊)を擁しながらすぐに平定しないので(不時輯定)、熲(汝)に兵を移して東討させようと欲する。しかし相応しいかどうかが分からないから、術略をよく検討せよ(原文「未識其宜可参思術略」。「参思」の「参」は「三」または「探究」の意味だと思います)。」
 
段熲が上書しました「臣が伏して先零、東羌を見るに、しばしば叛逆はしていますが、皇甫規に降った者も既に二万許落(約二万落。「落」は「部落」「村落」ですが、二万は多すぎるので、「帳(戸)」の意味で使っているのかもしれません)います。善悪が既に分かれており、残った賊はわずかしかいません(余寇無幾)。今、張奐が躊躇して進まないのは、(投降した者が)外見は(叛羌から)離れていても内では通じており、兵が向かったら必ず驚かすことになると心配しているからです(当慮外離内合兵往必驚)。しかも(叛羌は)冬から春を経ても屯を結んで解散せず、人畜ともに疲羸しており、自亡の勢があるので(叛羌には自滅の形勢があるので)(張奐は)改めて招降し、坐して強敵を制しようと欲しているのです。
しかし臣が思うに、狼子野心(強暴な本性をもつ人の喩えです。狼は小さい時から凶暴な心を持ちます。それと同じような人です)に対して恩納(恩徳による招降)を用いるのは困難です。(彼等は)勢が窮したら服しますが、兵が去ったらまた動きます。よって、長矛で胸を制して白刃を頸に加えるしかありません(唯当長矛挾脅,白刃加頸耳)
計るに東種(東羌)の残りは三万余落で、近く塞内に住み、路には険折(険阻)がなく、燕趙の従横の勢があるわけでもないのに、久しく并涼を乱し、繰り返し三輔を侵し、西河上郡が既にそれぞれ内徙し(内郡に移動し。順帝永和五年140年参照)、安定北地にまた単危(孤立の危機)が訪れています。雲中五原から西は漢陽に至る二千余里は、匈奴と諸羌が共にその地を占有しています。これは癰疽(悪性の腫瘍)が伏疾(病が潜伏すること)して脅下(胸の下)で留滞(停留)しているのと同じなので、もし誅を加えなかったら増大することになります。騎五千、歩万人、車三千両()を使えば、三冬二夏で破定(撃破平定)するに足り、費用の総計は銭五十四億ですみます(原文「無慮用費為銭五十四億」。「無慮」は「総計」の意味です)。このようにすれば、群羌を破尽(破滅)させて匈奴を長服させることができ、内徙の郡県(内地に遷った郡県)も本土に戻ることができます。伏して計るに、永初中(安帝の永初年間)に諸羌が反叛して十四年で二百四十億を使いました(安帝元初五年118年参照)(順帝の)永和の末からもまた七年を経て八十余億を使いました。ところが、費耗(出費)がこのようであったのにまだ誅尽(誅滅)できず、余孽(残った賊)が再び起ちあがって今に至るまで害を為しています。今、暫くの間、民を疲労させなかったら、永寧はいつまでも訪れません(不暫疲民則永寧無期)。臣は駑劣(愚劣な能力)を尽くすことを願い、伏して節度(指揮。指示)を待ちます。」
霊帝は上書に同意し、段熲の意見を全て採用しました。
 
段熲は一万余人の兵を指揮し、十五日分の食糧を携帯して、彭陽から直接、高平を目指しました。
資治通鑑』胡三省注によると、彭陽と高平はどちらも県名で安定郡に属します。
 
段熲は先零諸種(族)と逢義山(『孝霊帝紀』の注によると、「途義山」と書くこともあります)で戦いました。
しかし虜(先零)の兵が強盛だったため、段熲の兵が皆、恐れを抱きます。
そこで段熲は軍中に令を発し、(弩の)鏃を長くして(矛の)刃を鋭利にさせ(矢や刃を研いで)、長矛を三重にして強弩を中にはさみ(長矛兵の中に強弩兵を混在させたのだと思います。具体的にどのように配置されたのかは分かりません)、軽騎を並べて左右両翼にしました。
 
原文は「長鏃利刃,長矛三重挾以強弩,列軽騎為左右翼」です。
後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』では「長鏃利刃」が「張鏃利刃」になっており、「鏃を張って刃を鋭利にする」と読めますが、「鏃を張る」の意味が分かりません。無理に解釈すれば「弓を張る」という意味になるのかもしれませんが、中華書局『後漢書』の校勘記が「鏃は張れない。何の字かわからない(鏃非可張,未知何字)」「通鑑は張を長にしている(通鑑張作長)」と書いているので、「張」は恐らく誤りです。
また、「長鏃利刃長矛三重」は「長鏃(長い鏃)、利刃(鋭利な刀)、長矛で三重の陣を布いた」と解釈できないこともないと思いますが、「長鏃」と「利刃」は後ろの「強弩」と「長矛」を指しているのだと思います。
「挾以強弩」は「挟むに強弩を以てし」ですが、三重の陣を強弩で前後左右から挟むというのは不自然なので、この「挟」は「前後左右から挟む」のではなく、「三重の陣の中にはさむ」「混在させる」「間に入れる」という意味だと思います。
 
陣を構えてから段熲が将士にこう言いました「今、家を去って数千里におり、進めば事が成るが、逃走したら必ず死に尽くすことになる(進則事成,走必尽死)。努力して功名を共にしよう(努力共功名)!」
段熲が大呼すると兵達は皆、声を応じさせ、疾駆して敵陣に向かいました(応声騰赴)。段熲も傍で(兵達と一緒に)騎馬を駆けさせて突撃します。
虜衆(羌兵)が大潰(壊滅)して八千余級が斬首されました。
 
太后詔書を与えて功績を称賛し太后詔書褒美)、こう言いました「東羌が全て平定されるのを待って、併せて功勤を録します(論功行賞を行います)。今はとりあえず段熲に銭二十万を下賜し、家の一人を郎中にします。」
太后は中藏府に金銭、綵物を準備させて軍費を補充し、段熲を破羌将軍に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、中藏府令は少府に属し、幣帛金銀や諸貨物を管理しました。
 
 
 
次回に続きます。