東漢時代268 霊帝(三) 盧植 168年(3)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月甲午(中華書局『白話資治通鑑』は「閏月甲午」を恐らく誤りとしています)霊帝が皇祖(祖父)劉淑を追尊して孝元皇とし、その夫人夏氏を孝元后にしました。
また皇考()劉萇を追尊して孝仁皇とし、霊帝の母董氏を尊んで慎園貴人にしました。
「慎園」は慎陵の寝園を意味します。『後漢書皇后紀下』によると、劉萇の墓陵を「慎陵」といいました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊辰(中華書局『白話資治通鑑』は「戊辰」を恐らく誤りとしています)、太尉周景が死に、司空宣酆が罷免されました。
長楽衛尉王暢が司空になりました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月丁未朔、日食がありました。
 
霊帝が詔を発して公卿以下の官員にそれぞれ封事(密封した上書)を提出させました。
また、郡国の守相に有道の士をそれぞれ一人挙げさせました。
元刺史や二千石で、清高なうえ遺恵(後世に残す恩恵)があり、人々が帰心している者は全て公車(官署)を訪ねさせました。
 
[十一] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太中大夫劉矩を太尉にしました。
 
[十二] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、京師で大水(洪水)がありました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
癸巳(十七日)霊帝擁立の論功を行い(録定策功)、竇武を聞喜侯に、竇武の子機を渭陽侯に、兄の子紹を鄠侯に、竇靖紹の弟)を西郷侯に封じました。
また、中常侍曹節長安郷侯に封じました。
この時、合計十一人が封侯されました。
 
資治通鑑』胡三省注は竇機の渭陽侯について「両漢志(『漢書地理志』と『後漢書郡国志』)には渭陽県がない。舅氏(母の兄弟。竇武は竇太后の父なので、竇機は竇太后の兄弟になります)という親しい関係があったので、封国の名を為した(因舅氏之親而爲封国之名)」と書いています。名義上は封侯されたものの、実際の食邑はなかったのかもしれません。
 
涿郡の人盧植が上書して竇武にこう言いました「足下の漢朝における立場は旦(周公旦と召公奭)が周室に居たようなものであり、聖主の建立は四海に関係することなので(四海有繋)、論者は吾子(あなた)の功においてこれ(皇帝擁立)が最も重いと考えています。しかし今は同宗が相後しており(相次いで継承しており)、図を開き、牒に則って順に建てただけなので(「図」は家系図、「牒」は系譜です。どちらも同じような意味です。原文「披図案牒以次建之」)、何の勲(功)があるのでしょうか(皇帝は家系図に基いて順に即位しただけなので、竇武の功績ではありません)。どうして天の功を横から奪って自分の力(功績)とすることができるでしょう(豈可横叨天功以為己力乎)。大賞を辞すことで身名(身分と名誉)を全うするべきです。」
竇武はこの進言を用いることができませんでした。
 
東漢の歴代皇帝について簡単に整理します。
東漢光武帝、明帝、章帝、和帝と続きましたが、和帝の子殤帝が即位してすぐに死に、後嗣がいなかったため、章帝の孫として安帝が擁立されました。
安帝の後は子の順帝が継ぎ、順帝の後は子の沖帝が継ぎました。しかし沖帝は幼くして死んだため後嗣がなく、章帝の玄孫に当たる質帝が即位しましたが、すぐに梁冀に殺されました。順帝も幼帝だったため後嗣がいません。
そこで章帝の曾孫に当たる桓帝が選ばれました。
桓帝は在位が二十年以上に及びましたが、やはり後嗣がいなかったため、章帝の玄孫に当たる霊帝が帝位に即きました。
 
盧植は身長が八尺二寸もあり、声は鐘音のようで、性格が剛毅で大節をもっており、若い頃、馬融に学びました。
馬融の性格は豪侈(豪快奢侈)で、多くの女倡を前に並べて歌舞をさせました。
盧植は馬融に侍講(教えを受けること)して年を重ねましたが、一度も視線を転じてそれを見たことがありません(未嘗転盼)
そのため馬融は盧植を敬重しました。
 
太后は陳蕃に旧徳があったため桓帝が皇后を選んだ時、陳蕃が竇氏を推しました。桓帝延熹八年165年参照)、特別に高陽郷侯に封じました。
しかし陳蕃は上書して辞退しました「臣が聞くに、割地の封とは功徳によって為されるものです(功徳是為)。臣には素潔(廉潔)の行がないとはいえ、心中で君子の『正しい道によって得たもの(富貴)でなければそこに居ない(原文「不以其道得之不居也」。『論語』の言葉が元になっています)』という姿を慕っています。もしも爵を受けて譲らず、顔を覆ってこれに就いたら(掩面就之)、皇天を震怒させ、災を下民に流すことになります。(そうなったら)臣のこの身をどこに寄せたらいいのでしょうか(於臣之身亦何所寄)。」
太后は同意しませんでした。
しかし陳蕃が固く辞退して上書が前後十回にも上ったため、最後は封侯されませんでした。
 
 
 
次回に続きます。