東漢時代269 霊帝(四) 張奐と段熲 168年(4)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
段熲が軽兵を率いて羌(東羌)を追撃し、橋門(地名)を出ました。
朝から夜まで兼行し、奢延沢、落川、令鮮水の辺で戦って連破します。
更に霊武の谷で戦い、羌が大敗しました。
資治通鑑』胡三省注によると、霊武は県名で北地郡に属します。
 
秋七月、段熲が涇陽に到りました。
資治通鑑』胡三省注によると、涇陽県は安定郡に属します。
 
残った寇(羌人)は四千落で、全て分散して漢陽の山谷の中に入りました。
 
後漢書霊帝紀』は「秋七月、破羌将軍段熲が再び先零羌を涇陽で破った」と書いていますが、『後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』『資治通鑑』とも「涇陽で戦った」という記述はありません。  
 
匈奴中郎将張奐が上書しました「東羌は破れましたが、余種(余族)を滅ぼすのは困難であり(難尽)、段熲は性が軽果(軽率果敢)です。負敗が一定ではないことを考慮して(東羌が敗れるとは限らないことを考慮して。原文「慮負敗難常」)、とりあえず恩徳によって降すべきです。そうすれば後悔せずにすみます(宜且以恩降,可無後悔)。」
 
詔書が段熲に下されたため、段熲が返書を提出しました「臣は元から東羌の人数が多くても輭弱(軟弱)で制しやすいと知っていたので(東羌雖衆而輭弱易制)、繰り返し愚慮(愚見)を述べ、永寧の算(計)を為そうと思いました。逆に中郎将張奐は、虜は強くて破るのが難しいので招降を用いるべきだと言いました。しかし聖朝(陛下)は明監(「明鑑」。洞察力があること)で、瞽言(盲人による見識がない言葉。ここでは段熲の言葉を指します)を信じて採用したので、臣の謀が行われるようになり、張奐の計は用いられなかったのです。(その後)、事勢(形勢)が相反したため(張奐の予測と実情が異なったため)(張奐は)猜恨(猜疑怨恨)を抱き、叛羌の訴えを信じ、辞意を飾潤(潤色)して『臣(段熲)の兵は繰り返し挫折している(累見折衂)』と言い、また、『羌も一気によって生まれたので誅滅はできない(原文「羌一気所生,不可誅尽」。漢人も羌人も天の一気(万物の根源)から生まれたので、羌人を誅滅してはならないという意味です)。山谷は広大なので、空静(空虚)にはできず(羌人を全て殺すことはできず)、血が流れて野を汚したら和を傷つけて禍をもたらす(傷和致災)』と言っています。
臣が伏して念じるに(考えるに)、周秦の際には戎狄が害となり、中興東漢建国)以来は羌寇が最も盛んで、これを誅しても尽きず、(彼等は)たとえ降っても再び叛しました。今、先零雑種(先零等の諸族)は反覆を繰り返しており、県邑を攻め落とし、人や物を剽略(略奪)し、墓を掘って死体を露わにし(発冢露尸)、禍が生死(生者と死者)に及んでいるため、上天が震怒し、手(段熲の手。東漢軍)を借りて誅を行っています。昔、邢が無道を為したので衛国がこれを討伐しましたが、(衛が)師を興すと雨が降りました春秋時代の故事です)。臣が兵を動かして夏を越えましたが、続けて甘澍(農事に応じた雨)を獲て作物が豊穣になり(歳時豊稔)、人には疵疫(災害疫病)がありません。上に天心を占えば災異傷害を為さず(天心を窺えば、東羌討伐が天心に応じているので、災傷となるようなことはないと分かります。原文「上占天心不為災傷」)、下に人事を察すれば衆が和して師が勝ちます(人事について考察すれば、東羌討伐が人々に支持されているので、兵が和して軍が勝つことが分かります。原文「下察人事衆和師克」)。橋門以西、落川以東では、故宮(古い宮殿、または官府)や県邑が互いに通属(連接)しています。深険絶域の地(深遠険阻で隔絶された地)とはならず、車騎が安行しているので、折衂(挫折)に応じることはありません(張奐が「挫折している」と言っていますが、そのような事実はありません。原文「無応折衂」)
思うに、張奐は漢吏になってその身が武職に当たっているのに、駐軍して二年経っても寇を平定できなかったので、虚しく文徳を修めて武器を休め、獷敵(凶悪な敵)を招降することを欲しています(虚欲修文戢戈招降獷敵)。これは誕辞空説(荒唐無稽で中身がない話)で、信用できず、あてにもならないことです(原文「僭而無徵」。この「僭」は「虚偽」「信用できないこと」です。「無徵」は「証明できないこと」「当てにならないこと」です)
何をもってこう言うのでしょうか(何以言之)?昔、先零が寇(侵略)を為した時は、趙充国が内地に移住させ西漢宣帝時代、趙充国が西羌を撃ち、多数の羌人が降ったため、金城属国を置いて生活させました。西漢宣帝神爵二年60年参照)、煎当が辺境で乱を起こした時は、馬援がこれを三輔に遷しましたが、始めは服しても最後は叛し、今に至るまで鯁(病)となっています。だから遠識の士はこれを深憂(深い憂患)とみなしているのです。今、傍郡(辺郡)の戸口は単少(稀少)で、しばしば羌によって傷害を受けています(数為羌所創毒)。それなのに降徒をこれと雑居させようとしたら、それは枳棘(棘が多い悪木)の種を良田に撒き、蛇虺(毒蛇)を室内で養うようなものです。
よって臣は大漢の威を奉じ、長久の策を建て、その本根(根本)を絶って生殖できないようにすることを欲します。本規(元の計画)では三歳(三年)の費として五十四億を用いることになっていましたが、今、ちょうど一年が経っても消費は半数に至らず、しかも余寇残燼(燃え残りのような余寇)は殄滅(全滅)に向かっています。臣はいつも詔書を奉じていますが、軍とは朝廷が制御してはならないものです(臣每奉詔書,軍不内御)。この言(軍不内御)を貫徹して一切を臣に任せ(卒斯言一以任臣)(臣が)時に臨んで宜(便宜)を量り、権便臨機応変な態度、方法)を失わないことを願います。」
 
[十五] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、司空王暢を罷免し、宗正劉寵を司空にしました。
 
 
 
次回に続きます。