東漢時代270 霊帝(五) 竇武と陳蕃 168年(5)

今回も東漢霊帝建寧元年の続きです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
竇氏が皇后および太后に立つことができたのは、陳蕃の力によるものでした桓帝が皇后を選んだ時、陳蕃が竇氏を推しました。桓帝延熹八年165年参照)
そこで竇太后が朝政に臨むと、政事の大小に関わらず全て陳蕃に委ねました。
陳蕃は王室を助けるために(原文「以奨王室」。この「奨」は「助ける」「補佐する」の意味です)、竇武と同心になって力を尽くし、天下の名賢である李膺、杜密、尹勳、劉瑜等を招きました。彼等は皆、朝廷に列して共に政事に参与します。
その結果、天下の士が全て首を延ばして太平を期待するようになりました(莫不延頸想望太平)
 
しかし霊帝の乳母趙嬈や諸女尚書(宮内の女官)が朝から晩まで董太后の側におり、中常侍曹節、王甫等も互いに交友して(または「結託して」。原文「共相朋結」)太后に媚び諂ったため、太后は彼等を寵信し、しばしば詔命を発して封拝(封爵拝官)を受けさせました。
陳蕃と竇武はこれを嫌います。
 
ある日、二人が朝堂で会した時、陳蕃が秘かに竇武に言いました「曹節、王甫等は先帝の時から国権を弄び(操弄国権)、海内を濁乱させています。今、これを誅さなかったら、後には必ず図るのが困難になります。」
竇武が深く納得したため、陳蕃は大いに喜び、手で席を推して起ちあがりました(原文「以手推席而起」。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「推」を「椎」と書いているようです。「以手椎席而起」なら「手で席を打って起ちあがった」になり、こちらの方が意味が通るように思えます)
この後、竇武は志を同じくする尚書尹勳等を招いて共に計策を定めました。
 
ちょうど日食の変があったため、陳蕃が竇武に言いました「昔、蕭望之は一人の石顕によって困窮しました(原文「蕭望之困一石顕」。西漢元帝時代の故事です)。今は石顕の同類が数十人もいるのでなおさらです(況今石顕数十輩乎)。蕃(私)は八十の年をもって(八十歳の高齢ですが)将軍のために害を除くことを欲しています。今こそ日食を理由に宦官を斥罷(排斥罷免)し、それによって天変を塞ぐことができます。」
 
そこで竇武が竇太后に上奏しました「故事(前例)においては、黄門、常侍はただ省内(禁中)の給事(諸事務)、門戸の管理、近署財物の主管に当たっていただけでした(『資治通鑑』胡三省注によると、「近署」は少府に属す中藏府、尚方、内者の諸官署です)。しかし今は政事に参与させ、重権を任せ、子弟が布列(分布)して専ら貪暴を為しています。天下が匈匈(喧噪の様子。批判が多い様子)としているのはまさにこのためです(正以此故)。悉く誅廃して朝廷を清めるべきです。」
しかし竇太后はこう言いました「漢元(漢初)以来の故事(前例)において、代々宦官がいるのものです(世有宦官)。ただ罪がある者だけを誅すべきです。どうして廃滅し尽くすことができるでしょう(豈可尽廃邪)。」
 
当時、中常侍管霸は非常に才略があり、省内(禁中)専制していました。
そこで竇武は竇太后に上奏してからまず管霸および中常侍蘇康等を逮捕しました。どちらも罪に坐して死にます。
竇武は更に曹節等を誅殺するように上奏を繰り返しました。しかし竇太后が誅殺に忍びず躊躇したため(冘豫未忍)、久しく実行されませんでした。
 
陳蕃が上書しました「今、京師は囂囂(大勢が批判する様子)としており、道路が諠譁(喧噪)してこう言っています『侯覧曹節、公乗昕(『資治通鑑』胡三省注によると、「公乗」は秦の爵位です。爵名が氏になりました)、王甫、鄭颯等は趙夫人(趙嬈)、諸尚書(女尚書と共に天下を乱している。附従の者(阿附する者)が升進し、忤逆の者(逆らう者)が中傷され、一朝の群臣は河中の木(河に流れる木)のようで、東西に漂流して、禄を貪るだけで害を畏れている(汎汎東西,耽禄畏害)。』陛下が今急いで此曹(彼等)を誅殺しなかったら、必ず変乱が生まれて社稷を傾けることになり(傾危社稷、その禍は量り知れません(其禍難量)。臣の章(上奏文)を出して左右に宣示し、併せて天下の諸姦に臣が憎んでいることを知らせるように願います。」
太后はこの意見を採用しませんでした。
 
この月、太白(金星)が房の上将を侵して太微に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると房四星(房宿)は明堂を象徴し、天子が布政する宮です。また、四輔にも当たります。下の第一星が上将で、次は次将、次は次相、上の星は上相です。太微は天子の庭です。
 
侍中劉瑜はかねてから天官(天文)を得意としたため、この現象を嫌って皇太后に上書しました「『占書』を元に考察すると、宮門が閉じられ、将相が不利になり、姦人が主の傍にいることになります。急いでこれを防ぐように願います。」
 
劉瑜は竇武と陳蕃にも書を送り、星辰の錯繆(錯乱)は大臣にとって不利なので、速く大計を決断するべきだと伝えました。
これを受けて竇武と陳蕃は朱㝢(『資治通鑑』は「朱寓」としていますが、「朱㝢」の誤りです。『後漢書竇何列伝(巻六十九)』および先の記述では全て「朱㝢」です)司隸校尉に、劉祐を河南尹に、虞祁を雒陽令に任命しました。
更に竇武は竇太后に上奏してから黄門令魏彪を罷免し、自分と親しい小黄門山冰(『資治通鑑』胡三省注によると、周に山師の官があり、子孫が山を氏にしました。あるいは烈山氏の後代ともいわれています)と交代させました。
その後、山冰に長楽尚書鄭颯を逮捕するように上奏させ、鄭颯を北寺獄に送ります。
資治通鑑』胡三省注によると、「長楽尚書」は竇太后が朝政に臨むために置いた官のようです。宮内と外朝の間を行き来する文書や諸政令を管理しました。
 
陳蕃が竇武に言いました「このような者(原文「此曹子」。鄭颯を指します)は逮捕したらすぐに殺すべきです(便当收殺)。なぜ審問する必要があるのですか(何復考為)。」
竇武はこれに従わず、山冰と尹勳、侍御史祝瑨に命じて共に鄭颯を審問させました。その結果、鄭颯の供述が曹節や王甫にも及びます。
尹勳と山冰は曹節等の逮捕を求める上奏文を書き、劉瑜を送って内奏(宮内の皇帝や皇太后に上奏すること)させました。
 
九月辛亥(初七日)、竇武が宿(宮中の宿舎。『竇何列伝』によると、竇武は通常、禁中に住んでいました)を出て府邸(家)に帰りました(出宿帰府)
尹勳等の上奏文が竇太后に提出される前に、中書(宮中の文書)を管理する者がまず長楽五官史(『資治通鑑』胡三省注によると、長楽宮は太后が住む宮殿で、太后宮には女尚書が五人おり、五官史が管理しました)朱瑀に報告しました。朱瑀は竇武の上奏(実際は尹勳等の上奏文だと思われます。あるいは今までの竇武の上奏文を読んだのかもしれません)を盗み見て、怒ってこう言いました「中官(宦官)で放縦な者は当然、誅されるべきだ(自可誅耳)。しかし我々に何の罪があってことごとく族滅に遭わなければならないのだ(我曹何罪而当尽見族滅)!」
朱瑀は逆に大声を上げて「陳蕃と竇武は廃帝について太后に奏白(上奏)し、大逆を為している!」と叫びました。
 
その夜、朱瑀はかねてから親しくしている壮健な者や長楽従官史共普(『資治通鑑』胡三省注によると、長楽従官史は太后宮の従官を管理します。共は商代の諸侯の国で、国名が氏になりました。晋に左行共華がいました。または鄭の共叔段の後代ともいいます)、張亮等十七人を招き、血をすすって盟を結びました(原文「血共盟」。「血」は通常「歃血」と書きます。犠牲の血を口に含むか口の横に塗る儀式です)。竇武等の誅殺について謀議が行われます。
 
曹節霊帝にこう言いました「外の状況が切迫しています(外間切切)。徳陽前殿への出御を請います。」
曹節霊帝に剣を抜いて跳躍させました(原文「抜剣踊躍」。発奮、奮起の姿です)。また、乳母の趙嬈等に霊帝の左右で護衛させ、棨信を取って(原文「取棨信」。「棨信」は宮門を通る時に使う通行証です。宮門から棨信を回収して外部の者が入れなくしたのだと思います)諸禁門を閉じ、尚書の官属を招いてから白刃で脅かして詔板詔書を作らせ、王甫を黄門令に任命しました。王甫に符節を渡して北寺獄に派遣し、尹勳と山冰を逮捕させます。
しかし山冰が疑って詔を拒否したため、王甫は山冰を格殺(撃殺)し、併せて尹勳も殺しました。鄭颯が釈放されます。
 
王甫は兵を率いて宮中に還り、竇太后を脅迫して璽綬を奪いました。中謁者に南宮を守らせ、門を閉じて複道(上下二層の通路)を遮断します(『資治通鑑』胡三省注によると、謁者(中謁者)は門戸を守りました。雒陽の南宮と北宮は複道で繋がっていました)
更に鄭颯等に符節を持たせ、侍御史、謁者と共に竇武等を逮捕させました。
しかし竇武は詔を受け入れず、歩兵営に駆け入り、兄の子である歩兵校尉紹と共に使者を射殺しました。
北軍五校士の数千人が集められて都亭に駐屯します。
竇武が軍士に号令して言いました「黄門と常侍が反した。尽力した者は封侯して重賞を与える。」
 
 
 
次回に続きます。