東漢時代272 霊帝(七) 異変 169年(1)

今回は霊帝建寧二年です。五回に分けます。
 
己酉 169
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
霊帝が河間から董貴人霊帝の母)を迎え入れました。
 
三月乙巳(初三日)、慎園董貴人を尊んで孝仁皇后とし、永楽宮に住ませました。これを董太后といいます。
『孝霊帝紀』の注によると、董太后は永楽宮に住み、桓帝が母匽貴人を尊んだ時の儀礼と同等にされました(儀如桓帝尊匽貴人之礼)
 
太后の兄董寵を執金吾に、兄の子董重を五官中郎将に任命しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月壬辰(二十一日)、青蛇が御坐玉座の上に現れました。
癸巳(二十二日)、大風が吹き、雹が降り、大きな雷が鳴り響き(大風雨雹霹靂)、百余の大木が抜き倒されました。
 
後漢書霊帝紀』は「夏四月癸巳、大風が吹いて雹が降った(大風雨雹)。詔によって公卿以下にそれぞれ封事(密封した上書)を提出させた」と書いており、青蛇には触れていません。
後漢書楊震列伝(巻五十四)』は「熹平元年(172)、青蛇が御坐に現れた」と書いており、『後漢書五行志五』も「熹平元年四月甲午、青蛇が御坐の上に現れた。当時は霊帝が宦者に委任しており、王室が微弱になった」と書いています。
しかし『欽定四庫全書後漢記』には「建寧二年(本年)四月壬辰、御座殿軒に青蛇が現れる。癸巳、大風が木を折る」とあり、『資治通鑑』は『後漢記』に従っています(胡三省注参照)
 
霊帝が詔を発して公卿以下の官員にそれぞれ封事を提出させました。
大司農張奐が上書して言いました「昔、周公の葬が礼に合わなかったため、天が威を動かしました(天が怒って威を振るわせました。『資治通鑑』胡三省注によると、周公が死んだ時、成王が成周に埋葬しようとしました。すると天が雷を落として風を起こし雷電以風)、禾(稲)が全て倒れて大木が抜き倒されたため、邦人(国人)が大いに恐れました。そこで成王は周公を畢に埋葬しました。畢には文王と武王の墓があります。成王は周公を臣下とみなさないという意思を示しました)。今、竇武と陳蕃は忠貞でありながらまだ明宥(公けの寛恕)を被っていません。妖眚(災異)が来たのは全てこのためです。急いで(彼等を)收葬し、家属を遷し還らせ、従坐連座による禁錮を一律免除するべきです(一切蠲除)。また、皇太后(竇氏)が南宮に居ますが、恩礼が行き届いておらず(恩礼不接)朝臣は何も言えず朝臣莫言、遠近が失望しています。顧復(養育の恩)に報いる大義を思うべきです(宜思大義顧復之報)。」
霊帝は張奐の言を深く称賛して諸常侍に意見を求めました。しかし左右の者は皆、これを嫌います。
結局、霊帝は自分の判断に従うことができませんでした(帝不得自従)
 
張奐はまた尚書劉猛等と共に王暢や李膺を推挙し、彼等は三公の選に加えることができると進言しました。
曹節等はますます張奐の発言を嫌い、ついに詔を下して霊帝に詔を下させて)厳しく譴責しました。
張奐等は皆、自ら廷尉を訪ねて獄に繋がれ、数日後にやっと釈放されましたが、それぞれ三カ月の俸禄で贖罪することになりました。
 
郎中東郡の人謝弼が封事を提出して言いました「臣が聞くに、『虺(毒蛇の一種)や蛇は女子の祥である(原文「惟虺惟蛇,女子之祥」詩経小雅斯干』の一句です)』といいます。伏して思うに、皇太后が宮闥(宮中)で策を定め、聖明(陛下)を援立しました。『書』はこう言っています『父子や兄弟には互いに罪が及ぶことはない(原文「父子兄弟,罪不相及」。『資治通鑑』胡三省注によると、『春秋左氏伝』が『尚書康誥』からの引用として「父不慈,子不祗,兄不友,弟不恭,不相及也」と言っていますが、現在の『尚書康誥』にはこの言葉がないようです)。』竇氏の誅において、どうしてその咎が太后に及ぶべきなのでしょうか(豈宜咎延太后太后は)空宮に幽隔(幽閉隔絶)され、天心を愁感させています。もしも霧露の疾(寒暑による病)があったら、陛下は何の面目があって天下に見えるのですか(陛下当何面目以見天下)
孝和皇帝は竇氏の恩を絶たなかったので(和帝永元九年97年参照)、前世がこれを美談としました。『礼』においては、人の後嗣になったらその人の子になります(為人後者為之子)。今、(陛下は)桓帝を父としたのに、どうして太后を母としないでいられるのでしょうか霊帝の実父は解瀆亭侯劉萇で、実母は董夫人です)。陛下が有虞(帝舜)による蒸蒸の化(孝順の教化)と『凱風詩経邶風)』による慰母の念(母に感謝して慰労する気持ち)を仰慕(敬慕)することを願います。
臣はまたこう聞いたことがあります『国を開いて家を継ぐのに小人を用いてはならない(封国を建てたり後継者を立てる時は小人を用いてはならない。原文「開国承家,小人勿用」)。』今は功臣が久しく外におり、まだ爵秩を蒙っていないのに、阿母(乳母)が寵私(個人的な恩寵)によって大封を享受しています。これも大風雨雹(雹が降ること)の原因です。また、元太傅陳蕃は王室のためにその身を勤労辛苦させたのに(勤身王室)、群邪に陥れられて一旦にして誅滅されました。その様子は酷濫(残刻で限度がないこと)であり、天下を駭動(震撼驚動)させています。しかも門生故吏がそろって徙錮(流刑禁錮に遭いました(原文「並離徙錮」。「離」は「遭」の意味です)。陳蕃の身は既に去り、百人の命と換えても償えません(原文「人百何贖」。通常は「百身何贖」といいます。深い悲しみを表します)。その家属を還らせて禁網(禁令)を解除するべきです。台宰(宰相の地位)は重器であり、国命が繋がっていますが、今の四公(『資治通鑑』胡三省注によると、太尉劉矩、司徒許訓、太傅胡広と司空劉寵です)では司空劉寵だけが断断(確実、誠心誠意な様子)と善を守っており、残りは皆、素餐致寇の人(徳が無いのに俸禄を貪っており、賊(害)を招くような人)なので、必ず折足覆餗の凶(鼎の足が折れて中身がこぼれるような凶事。能力がない者が職に就いているために招く災難)があります。(今なら)災異を理由に併せて罷黜(罷免排斥)を加えることができます。元司空王暢と長楽少府李膺を召して共に政事に居させれば、災変を消して国祚(国運)を永くすることもできるでしょう(庶災変可消,国祚惟永)。」
霊帝の左右の者はこの進言を嫌い、謝弼を朝廷から出して広陵府丞にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、この「府丞」は「郡丞」です。
 
謝弼は官を去って家に帰りました。
ところが、曹節の従子(従兄弟の子。または甥)曹紹が東郡太守を勤めており、罪を探して謝弼を逮捕しました。謝弼は拷問に遭って獄死します(掠死於獄)
後漢書杜欒劉李劉謝列伝(巻五十七)』によると、献帝初平二年191年)司隸校尉趙謙が謝弼の忠節を訴えたため、曹紹は逮捕されて斬られました。
 
霊帝が蛇妖のことを光禄勳楊賜に問いました。楊賜は楊秉の子で楊震の孫です。
楊賜が封事を提出しました「善とは妄りに来るものではなく、災とは理由なく発せられるものではありません(夫善不妄來,災不空発)。王者の心に想うことがあったら、まだ顔色を形成していなくても、五星がこれによって推移し、陰陽がそのために度(程度)を変えるものです(変化するものです)。皇極(帝王が天下を治める基準)が建たなかったら龍蛇の孽(凶事)があります(『資治通鑑』胡三省注によると、蛇も龍も陰に属します)。『詩』はこう言っています『虺や蛇は女子の祥である(惟虺惟蛇,女子之祥)。』陛下が乾剛(陽剛)の道を思い、内外の宜(義。道理)を別け(内と外における道義を分別し)、皇甫の権を抑え、豔妻(艶妻)の愛を割くことを願います。そうすれば蛇変を消すことができ、禎祥(吉祥)がすぐに応じるでしょう(禎祥立応)。」
「皇甫」は「皇父」とも書きます。西周幽王時代の卿士で、幽王の寵臣です。「豔妻」は幽王の后として国を傾けた褒姒です。『詩経小雅十月之交』から引用しています。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、太尉聞人襲と司空許栩を罷免しました。
六月、司徒劉寵を太尉に、太常汝南の人許訓を司徒に、太僕長沙の人劉囂を司空に任命しました。
劉囂は以前から諸常侍に阿附していたため、位が公輔(三公四輔)に上りました。
 
『孝霊帝紀』の注によると、許訓の字は季師といい、平輿(汝南郡に属します)の人です。
劉囂の字は重寧です。



次回に続きます。